賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の七本槍は、1583年に羽柴秀吉と柴田勝家が近江で争った賤ヶ岳の戦いで、秀吉方として目覚ましい槍働きを見せた七人の武将です。福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元が数えられ、正則に5000石、ほかの六人に3000石が与えられたとされます。ただし石川兵助と桜井佐吉を加えた九人が賞されたとする記録もあり、「七本槍」の名は譜代の家臣に乏しい秀吉が子飼いの手柄を宣伝したものとする見方もあります。

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脇坂安治
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 兵庫県 洲本市

脇坂安治

(わきざかやすはる)

脇坂安治は近江の出身で、羽柴秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた武将です。1585年に淡路の洲本城主となり、水軍を率いて朝鮮出兵にも加わりました。関ヶ原の戦いでは西軍から東軍へ転じて所領を守り、1609年に伊予の大洲へ移ります。脇坂家はのちに播磨の龍野藩主となり、明治維新まで家を伝えました。

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糟屋武則
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 兵庫県 加古川市

糟屋武則

(かすやたけのり)

糟屋武則は播磨の加古川を本拠とした糟屋氏の出身で、羽柴秀吉に仕えた武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられ、のちに加古川城主として1万2000石を領したといわれます。関ヶ原の戦いの後に所領を失いましたが、戦いでの動きやその後の足取りには諸説があります。一族の居城だった加古川城の跡は、いまの称名寺の一帯とされます。

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平野長泰
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 奈良県 田原本町

平野長泰

(ひらのながやす)

平野長泰は羽柴秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた武将です。のちに大和の田原本などで5000石を与えられ、関ヶ原の戦いの後も徳川家の旗本として所領を保ちました。七本槍のなかで生涯大名にならなかったのは長泰ただ一人ですが、子孫は田原本に陣屋を構えて治め続け、幕末の1868年に大名へ列しました。

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片桐且元
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 奈良県 斑鳩町

片桐且元

(かたぎりかつもと)

片桐且元は近江の生まれで、羽柴秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた武将です。武勇よりも検地や普請の奉行として手腕を振るい、秀吉の死後は豊臣秀頼を支える家老となりました。1601年に大和の竜田で2万8000石を与えられて竜田藩の初代となりますが、1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂城を去ることになりました。

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福島正則
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 広島県 広島市中区

福島正則

(ふくしままさのり)

福島正則は尾張の生まれで、幼いころから羽柴秀吉に仕えた子飼いの武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田方の拝郷家嘉を討ち、七本槍のなかでただ一人5000石を与えられました。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒を務め、安芸・備後49万8000石を得て広島城に入り、城下町と街道を整えます。しかし1619年、城の無断修築をとがめられて改易されました。

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加藤嘉明
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 愛媛県 松山市

加藤嘉明

(かとうよしあき)

加藤嘉明は三河の生まれで、若くして羽柴秀吉に仕えた武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられ、のちには水軍を率いて朝鮮出兵にも加わりました。関ヶ原の戦いで東軍に付いて伊予20万石を得ると、1602年に勝山で新しい城を築き始め、この地を松山と名付けます。1627年に会津40万石へ移るまで、松山の城と町の礎を築きました。

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加藤清正
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 熊本県 熊本市中央区

加藤清正

(かとうきよまさ)

加藤清正は尾張中村の生まれで、母の縁から幼くして羽柴秀吉に仕えた武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで山路正国を討って七本槍の一人に数えられ、1588年に肥後の北半国を任されました。関ヶ原の戦いの後は肥後一国を治め、反りの強い石垣で名高い熊本城を築きます。治水や新田の開発にも力を注ぎ、熊本では今も「せいしょこさん」と呼ばれて親しまれています。

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❓ 賤ヶ岳の七本槍のよくある質問

Q.賤ヶ岳の七本槍は本当に七人だったのですか?

A.七本槍に数えられるのは七人ですが、九人が賞されたとする記録もあります。福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元に、石川兵助と桜井佐吉を加えた九人です。「七本槍」の名は、譜代の家臣に乏しい秀吉が子飼いの手柄を宣伝したものとする見方もあります。

Q.賤ヶ岳の七本槍で最も多くの恩賞を得たのは誰ですか?

A.福島正則です。1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍の働きで柴田方の拝郷家嘉を討ち取り、七本槍のなかで最も多い5000石を与えられました。加藤清正や片桐且元など、ほかの六人には3000石が与えられたとされます。

Q.賤ヶ岳の七本槍は関ヶ原の戦いでどちらに付いたのですか?

A.七人の動きは分かれました。福島正則は東軍の先鋒を務め、加藤清正は九州で東軍として戦い、加藤嘉明も東軍に付きました。一方、脇坂安治は西軍として布陣しながら東軍へ寝返り、糟屋武則は西軍に付いたとされ、戦いの後に所領を失いました。

Q.賤ヶ岳の七本槍の加藤清正と加藤嘉明は親戚ですか?

A.血縁はありません。二人は同じ七本槍に数えられ姓も同じですが、加藤清正は尾張中村、通称を孫六という加藤嘉明は三河の生まれです。のちに清正は肥後で熊本城を築き、嘉明は伊予で松山城を築き始めました。

Q.賤ヶ岳の七本槍のゆかりの地はどこにありますか?

A.七人ゆかりの城や領地は、広島県・熊本県・愛媛県・兵庫県・奈良県の5県にあります。福島正則の広島城、加藤清正の熊本城、加藤嘉明の松山城、脇坂安治の洲本城、糟屋武則の加古川城跡、平野長泰の田原本、片桐且元の竜田です。直線距離では、最も近い田原本と竜田が約9km、最も離れた熊本城と奈良県の二か所が約510kmです。

📍 所在地マップ