三管領は、将軍を補佐して幕府の政務を取りまとめる管領の職に就いた斯波氏・細川氏・畠山氏の三家を指す呼び名です。いずれも足利氏の一門で、管領はこの三家から交代で任じられました。畠山基国が畠山氏から初めて管領となったころにこの呼び名が定着したとされ、細川氏では嫡流の京兆家が代々その職を務めました。15世紀半ばには斯波氏と畠山氏の家督争いが、応仁の乱の火種のひとつになりました。
A.三家とも足利氏の一門で、将軍を補佐する管領の職に交代で任じられた家です。三管領という呼び名は、畠山基国が畠山氏から初めて管領となったころに定着したとされます。細川氏では嫡流の京兆家が代々その職を務めました。
A.当主が代々任じられた官職の唐名に由来します。斯波氏は兵衛府の長官や次官に任じられたことから武衛家、細川氏の嫡流は右京大夫に任じられたことから京兆家と呼ばれました。畠山氏の嫡流は衛門督に任じられたことから、金吾家とも呼ばれました。
A.斯波氏と畠山氏の家督争いが応仁の乱の火種のひとつになり、細川氏の細川勝元は東軍を率いました。1467年の正月、畠山政長と畠山義就が京都の上御霊神社で戦った御霊合戦が乱の発端とされます。政長は東軍、義就は西軍に属し、乱が終わったあとも河内で戦いが続きました。
A.斯波氏です。斯波氏は三管領のなかでも家格が最も高いとされ、三管領の筆頭とされました。一方で、細川氏は斯波氏や畠山氏が家督争いで力を落としていくなかで一族の結束を保ち、三管領のなかで最も長く幕政の中心にありました。
A.斯波氏ゆかりの愛知県清須市の清洲城、細川氏ゆかりの京都市右京区の龍安寺、畠山氏ゆかりの京都市上京区の上御霊神社があります。龍安寺は細川勝元が開いた京兆家の菩提寺で、上御霊神社には応仁の乱勃発地の石碑が立ちます。龍安寺と上御霊神社は直線距離で約4km離れています。