【概要】
片桐且元は近江の生まれで、羽柴秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた武将です。武勇よりも検地や普請の奉行として手腕を振るい、秀吉の死後は豊臣秀頼を支える家老となりました。1601年に大和の竜田で2万8000石を与えられて竜田藩の初代となりますが、1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂城を去ることになりました。
【歴史】
片桐且元は1556年、近江国浅井郡の須賀谷に生まれ、浅井氏の滅亡後に羽柴秀吉に仕えました。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人として3000石を得たのちは、検地や寺社の造営を取り仕切る奉行として重んじられます。秀吉の死後は豊臣秀頼に仕える家老として大坂城に詰め、1601年に大和の竜田で2万8000石を与えられて、竜田藩の初代藩主となりました。
【特徴】
片桐且元は、武功よりも行政と普請の手腕で知られた人物でした。秀頼の名で進められた寺社の再建では奉行を務め、1607年に完成した北野天満宮の本殿の造営にも携わっています。方広寺の大仏殿の再建も担いましたが、1614年に鋳造された梵鐘の銘文にある「国家安康」の文字が徳川家康の名を分断するものと問題視され、且元はその釈明に奔走することになりました。
【見どころ】
且元が藩祖となった竜田は、奈良県斑鳩町の西部、法隆寺の西に広がる地域です。竜田の地は古くから紅葉の名所として和歌に詠まれ、在原業平の「ちはやぶる神代もきかず竜田川」の歌は百人一首にも採られています。竜田川沿いの竜田公園では、秋になると色づいたモミジが川面を彩ります。法隆寺や龍田神社とあわせて、ゆっくり歩いてめぐることができます。
【トリビア】
鐘銘事件の交渉で徳川方に通じていると疑われた且元は、1614年10月に大坂城を退いて摂津の茨木城へ移りました。この退去が豊臣家と徳川家の決裂を決定づけ、大坂の陣が始まります。且元は徳川方として戦いを見届け、4万石に加増されましたが、豊臣家の滅亡から間もない1615年5月に世を去りました。忠臣だったのか裏切り者だったのか、その評価は今も分かれています。
