松下村塾四天王は、幕末の萩で吉田松陰が主宰した松下村塾の門下生のうち、とくに秀でた久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一の四人を指す呼び名で、松門の四天王ともいわれます。なかでも久坂と高杉は「識の高杉、才の久坂」と並び称され、松下村塾の双璧と呼ばれました。四人はいずれも明治の世を見ることなく、1864年から1867年のあいだに二十代で世を去っています。
A.四人はいずれも明治の世を見ることなく、二十代で世を去りました。吉田稔麿は元治元年(1864年)の池田屋事件で新選組の襲撃に遭って命を落とし、同じ年の禁門の変では久坂玄瑞が鷹司邸で自刃し、入江九一も深手を負って自決しています。高杉晋作は慶応3年(1867年)に病で亡くなりました。
A.池田屋事件での吉田稔麿の最期には諸説があります。池田屋で斬り死にしたとする話のほか、いったん囲みを抜けて長州藩邸へ急を知らせ、引き返す途中で倒れたとする話も伝わります。いずれにしても元治元年(1864年)の池田屋事件で、数え年二十四歳で命を落としています。
A.高杉晋作と久坂玄瑞の二人を並び称した言葉で、二人は松下村塾の双璧と呼ばれました。吉田松陰は久坂玄瑞を防長年少第一流の人物と称え、門下で一歳年上の高杉晋作と競わせて互いを高めさせました。久坂玄瑞は松陰の妹の文を妻に迎え、師とは義理の兄弟の間柄にもなっています。
A.最も年長なのは天保8年(1837年)生まれの入江九一で、最も年若い一人とされるのが天保12年(1841年)生まれの吉田稔麿です。高杉晋作は天保10年(1839年)、久坂玄瑞は天保11年(1840年)の生まれです。入江九一と吉田稔麿は、どちらも足軽の家の出身でした。
A.久坂玄瑞誕生地と入江九一・野村靖誕生地はどちらも山口県萩市の城下町にあり、高杉晋作の墓所のそばに建つ東行庵は山口県下関市にあります。萩市の二か所と東行庵は直線距離で約50km離れています。吉田稔麿ゆかりの池田屋跡は京都府京都市中京区の三条通沿いにあり、山口県の三か所から約400〜440km離れています。