【概要】
加藤嘉明は三河の生まれで、若くして羽柴秀吉に仕えた武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられ、のちには水軍を率いて朝鮮出兵にも加わりました。関ヶ原の戦いで東軍に付いて伊予20万石を得ると、1602年に勝山で新しい城を築き始め、この地を松山と名付けます。1627年に会津40万石へ移るまで、松山の城と町の礎を築きました。
【歴史】
加藤嘉明は1563年に三河で生まれ、若くして羽柴秀吉に仕えました。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人として3000石を与えられたのち、淡路を拠点に水軍を預かり、文禄・慶長の役では船手の将として海で戦います。1595年に伊予の松前へ移り、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて20万石に加増されました。1627年に会津40万石へ移り、1631年に江戸で亡くなりました。
【特徴】
嘉明には、落ち着いた人柄を伝える逸話が多く残ります。秘蔵していた十枚組の皿の一枚を家臣が割ってしまったとき、残りの九枚を自ら割り、皿を見るたびに家臣の過ちを思い出すことのないようにしたと伝わります。通称は孫六で、同じ七本槍の加藤清正とは姓が同じでも血縁はありません。陸の戦いに加えて水軍の指揮にも長けた、手堅い武将として評価されています。
【見どころ】
嘉明が築き始めた松山城は、愛媛県松山市にある標高132メートルの勝山の山頂に本丸を置く平山城です。天守と小天守、隅櫓を渡櫓でつないだ連立式の天守群が残り、現在の天守は江戸時代の末期に再建された現存天守の一つです。山の斜面を下る登り石垣も見どころで、ロープウェイやリフトで山上へ上がると、松山の市街から瀬戸内海の島々まで見渡せます。
【トリビア】
松山という地名は、嘉明が勝山に城を築いて居を移したときに名付けたものとされます。嘉明は城の完成を見届ける前に会津へ移り、築城は後に入った蒲生忠知の代まで続いたといわれます。その後、この地名は松山藩の名となり、明治以降は愛媛の県庁所在地の名として受け継がれました。加藤嘉明が付けた名前は、四百年以上を経た今も町の名として生き続けています。
