【概要】
福島正則は尾張の生まれで、幼いころから羽柴秀吉に仕えた子飼いの武将です。1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田方の拝郷家嘉を討ち、七本槍のなかでただ一人5000石を与えられました。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒を務め、安芸・備後49万8000石を得て広島城に入り、城下町と街道を整えます。しかし1619年、城の無断修築をとがめられて改易されました。
【歴史】
福島正則は1561年、尾張国海東郡の二ツ寺村(現在のあま市)に生まれました。母が羽柴秀吉の親類だったとされる縁から、幼くして小姓として仕えます。1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍の働きで柴田方の拝郷家嘉を討ち取り、七本槍のなかで最も多い5000石を与えられました。1595年には尾張清洲24万石の大名となり、関ヶ原の戦いの後に安芸・備後49万8000石へ移りました。
【特徴】
福島正則は勇猛な武将であると同時に、大の酒好きとしても知られました。伏見の屋敷での酒宴で、黒田家の使者として訪れた母里友信に大杯の酒を飲み干され、約束どおり秀吉から拝領した名槍の日本号を譲ったと伝わります。この逸話は福岡の民謡「黒田節」に歌われ、日本号は現在、福岡市博物館に収められています。豪快さと約束を重んじる律儀さを併せ持つ人柄がうかがえる話です。
【見どころ】
福島正則が関ヶ原の後に入った広島城は、広島県広島市中区にある平城です。天守は原爆で倒壊したのち1958年に外観を復元したもので、内部の公開は2026年3月に終わりましたが、堀端からその姿を眺められます。二の丸では表御門や平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が1994年までに木造で復元されました。原爆の被害を受けながら残った石垣と広い内堀が、往時の城の大きさを伝えています。
【トリビア】
1617年の洪水で広島城の石垣などが傷むと、福島正則は幕府の正式な許しを得ないまま修築を進めました。これが武家諸法度に背くとされ、1619年に安芸・備後を取り上げられて、信濃の高井野などわずか4万5000石へ移されます。正則は1624年に高井野で世を去りました。賤ヶ岳の一番槍から大大名へ上りつめた武将の運命は、城の石垣の修築をきっかけに大きく暗転したのです。
