幕末の四賢侯は、越前福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城、薩摩藩の島津斉彬の四人の大名を指す呼び名です。いずれも藩政改革で名を上げ、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推す一橋派に連なり、朝廷と幕府の協調をめざす公武合体の路線で国政に関わりました。正式な称号ではなく世評から広まった通称とされ、1858年に没した斉彬に代えて異母弟の島津久光を数える見方もあります。1867年の四侯会議に臨んだのも久光でした。
A.四人とも、身分や家柄にとらわれずに人材を登用しました。松平春嶽は橋本左内や由利公正を重く用い、熊本藩から横井小楠を招きました。山内容堂は改革派の吉田東洋を参政に抜擢し、伊達宗城は蘭学者の高野長英や村田蔵六(のちの大村益次郎)を迎えています。島津斉彬は、下級藩士だった西郷隆盛を取り立てました。
A.四侯会議には、島津斉彬ではなく異母弟の島津久光が臨みました。斉彬は1858年に急死しており、1867年の四侯会議には松平春嶽・山内容堂・伊達宗城と久光の四人が加わっています。四賢侯は正式な称号ではなく世評から広まった通称とされ、斉彬に代えて久光を数える見方もあります。
A.四人とも、一橋慶喜を推す一橋派に連なりました。島津斉彬は養女の篤姫を13代将軍徳川家定に嫁がせており、この縁組には慶喜を次の将軍に推すための布石という狙いもあったと言われます。その後、松平春嶽は1858年に大老井伊直弼から隠居と謹慎を命じられ、伊達宗城も同じ年に、山内容堂は1859年に隠居を余儀なくされました。
A.山内容堂は将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、伊達宗城は明治政府で外交の要職を担いました。容堂の建白は1867年に後藤象二郎の進言を受けたもので、宗城は1871年に全権として清に渡り、李鴻章とのあいだで日清修好条規に調印しています。松平春嶽も、元号の「明治」を決める際に候補を絞り込む役を担ったと伝えられます。
A.松平春嶽は福井県福井市の福井城址、山内容堂は高知県高知市の高知城、伊達宗城は愛媛県宇和島市の宇和島城、島津斉彬は鹿児島県鹿児島市の仙巌園がゆかりの地です。高知城は天守と本丸御殿がそろって現存する全国で唯一の城、宇和島城は現存十二天守の一つです。直線距離で最も近いのは高知市と宇和島市の約100km、最も離れているのは福井市と鹿児島市の約720kmです。