伊達三傑

伊達三傑

伊達三傑は、仙台藩祖の伊達政宗を支えた家臣のなかでも特に功績の大きい、片倉景綱・伊達成実・鬼庭綱元の三人をまとめて呼ぶ名です。景綱は軍師として知略、成実は合戦の先陣、綱元は奉行として財政や兵站を担ったとされ、それぞれ得意の分野で政宗を助けました。三人は人取橋の戦いや摺上原の戦いなど政宗の苦しい戦いの時代を支え、のちに宮城県内の白石・亘理・栗原にゆかりの地を残しています。

日本名数>伊達三傑
片倉景綱
🏯 歴史
📍 宮城県 白石市

片倉景綱

(かたくらかげつな)

片倉景綱は、弘治3年(1557年)に米沢の八幡社の神職の家に生まれた伊達家の重臣で、通称の小十郎の名で広く知られます。幼い政宗の守り役となり、のちには軍師として合戦の策を練り、豊臣秀吉への小田原参陣を進言して伊達家の危機を救いました。慶長7年(1602年)に白石城を預けられ、片倉家はそこから幕末まで代々の白石城主を務めました。

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伊達成実
🏯 歴史
📍 宮城県 亘理町

伊達成実

(だてしげざね)

伊達成実は、永禄11年(1568年)に伊達実元の子として生まれた政宗の従弟で、伊達軍随一の勇将とうたわれた武将です。若くして人取橋の戦いで踏みとどまって軍を支え、摺上原の戦いでも勝利に大きく貢献しました。一時は伊達家を離れましたが、のちに帰参し、慶長7年(1602年)に亘理を与えられて亘理伊達家の祖となりました。

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鬼庭綱元
🏯 歴史
📍 宮城県 栗原市

鬼庭綱元

(おににわつなもと)

鬼庭綱元は、天文18年(1549年)に伊達家の重臣である鬼庭良直の嫡男として生まれた武将で、のちに茂庭綱元と名を改めました。奉行として政務や財政を取り仕切り、豊臣政権との交渉や朝鮮出兵の兵站でも手腕を発揮したとされます。政宗より年長でありながら政宗の没後まで生き、寛永17年(1640年)に九十二歳で世を去りました。

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❓ 伊達三傑のよくある質問

Q.伊達三傑の三人はそれぞれどんな役割で伊達政宗を支えたのですか?

A.片倉景綱は軍師として知略、伊達成実は合戦の先陣、鬼庭綱元は奉行として財政や兵站を担ったとされます。景綱は豊臣秀吉への小田原参陣を強く勧めて伊達家の存続につなげたと伝えられ、成実は伊達軍随一の勇将とうたわれました。綱元は文禄の朝鮮出兵で兵糧の手配を受け持ち、伊達軍から一人の餓死者も出さなかったと伝えられます。

Q.伊達三傑の三人は伊達政宗とどんな間柄だったのですか?

A.片倉景綱は幼い政宗の守り役、伊達成実は政宗の従弟、鬼庭綱元は伊達家の重臣の嫡男でした。景綱の姉の喜多は政宗の乳母で、成実の母は政宗の父輝宗の妹にあたります。綱元は政宗より年長でありながら政宗の没後まで生き、寛永17年(1640年)に九十二歳で世を去りました。

Q.伊達三傑の鬼庭綱元と茂庭綱元は同じ人物ですか?

A.同じ人物です。鬼庭綱元は天文18年(1549年)に伊達家の重臣である鬼庭良直の嫡男として生まれ、のちに茂庭綱元と名を改めました。鬼庭から茂庭へ姓が変わったのは、豊臣秀吉が鬼の字を嫌って改めさせたためと伝えられます。

Q.伊達三傑のうち、一度伊達家を離れたのは誰ですか?

A.伊達成実と鬼庭綱元は、どちらも一時伊達家を離れたのちに政宗のもとへ戻っています。成実は文禄年間に一度出奔しましたが、のちに帰参して再び政宗に仕えました。綱元は文禄4年(1595年)に政宗の命で家督を子に譲って隠居させられましたが、やがて許されて戻りました。

Q.伊達三傑ゆかりの地は宮城県のどこにありますか?

A.三か所とも宮城県にあり、片倉景綱は白石市の白石城、伊達成実は亘理町の亘理神社、鬼庭綱元は栗原市の洞泉院がゆかりの地です。白石城と亘理神社は直線距離で約20km離れています。栗原市の洞泉院は、白石城から約100km、亘理神社から約90kmです。

📍 所在地マップ

岩手県宮城県山形県秋田県新潟県福島県321片倉景綱伊達成実鬼庭綱元50 km地図データ: Natural Earth
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