伊達三傑は、仙台藩祖の伊達政宗を支えた家臣のなかでも特に功績の大きい、片倉景綱・伊達成実・鬼庭綱元の三人をまとめて呼ぶ名です。景綱は軍師として知略、成実は合戦の先陣、綱元は奉行として財政や兵站を担ったとされ、それぞれ得意の分野で政宗を助けました。三人は人取橋の戦いや摺上原の戦いなど政宗の苦しい戦いの時代を支え、のちに宮城県内の白石・亘理・栗原にゆかりの地を残しています。
A.片倉景綱は軍師として知略、伊達成実は合戦の先陣、鬼庭綱元は奉行として財政や兵站を担ったとされます。景綱は豊臣秀吉への小田原参陣を強く勧めて伊達家の存続につなげたと伝えられ、成実は伊達軍随一の勇将とうたわれました。綱元は文禄の朝鮮出兵で兵糧の手配を受け持ち、伊達軍から一人の餓死者も出さなかったと伝えられます。
A.片倉景綱は幼い政宗の守り役、伊達成実は政宗の従弟、鬼庭綱元は伊達家の重臣の嫡男でした。景綱の姉の喜多は政宗の乳母で、成実の母は政宗の父輝宗の妹にあたります。綱元は政宗より年長でありながら政宗の没後まで生き、寛永17年(1640年)に九十二歳で世を去りました。
A.同じ人物です。鬼庭綱元は天文18年(1549年)に伊達家の重臣である鬼庭良直の嫡男として生まれ、のちに茂庭綱元と名を改めました。鬼庭から茂庭へ姓が変わったのは、豊臣秀吉が鬼の字を嫌って改めさせたためと伝えられます。
A.伊達成実と鬼庭綱元は、どちらも一時伊達家を離れたのちに政宗のもとへ戻っています。成実は文禄年間に一度出奔しましたが、のちに帰参して再び政宗に仕えました。綱元は文禄4年(1595年)に政宗の命で家督を子に譲って隠居させられましたが、やがて許されて戻りました。
A.三か所とも宮城県にあり、片倉景綱は白石市の白石城、伊達成実は亘理町の亘理神社、鬼庭綱元は栗原市の洞泉院がゆかりの地です。白石城と亘理神社は直線距離で約20km離れています。栗原市の洞泉院は、白石城から約100km、亘理神社から約90kmです。