日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)は、戦国時代に劣勢な軍が奇抜な戦術で優勢な軍を破った三大合戦です。北条氏康が大軍を夜襲で破った「河越城の戦い」、毛利元就が謀略で陶晴賢を討った「厳島の戦い」、織田信長が今川義元を奇襲した「桶狭間の戦い」を指します。
A.河越城の戦いが天文15年(1546)、厳島の戦いが天文24年(1555)、桶狭間の戦いが永禄3年(1560)で、いずれも戦国時代の合戦です。三つのなかでは河越城の戦いがもっとも早く、桶狭間の戦いがもっとも新しい戦いにあたります。
A.河越城の戦いでは約8万といわれる連合軍に北条氏康が約8千の援軍で挑み、10倍の兵力差を覆したと評されます。厳島の戦いは陶軍約2万に毛利軍約4千で5倍の差、桶狭間の戦いは今川軍約2万5千に織田軍約2千から3千でした。河越の兵力8万には誇張があるとする見方もあります。
A.劣勢な軍が奇抜な戦術で優勢な軍を破った点です。河越城の戦いは夜陰に乗じた夜襲、厳島の戦いは暴風雨をついた上陸と背後からの急襲、桶狭間の戦いは豪雨が接近を隠したとされる本陣への攻撃でした。河越と厳島では、敵を油断させたり誘い込んだりする謀略も重ねられています。
A.近年は正面から本陣を突いたとする見方が有力です。かつては谷間で休む今川軍を丘の上から襲った「迂回奇襲説」が通説でしたが、『信長公記』の記述をもとにした「正面攻撃説」が有力視されるようになりました。折からの豪雨が織田軍の接近を隠したとされています。
A.古戦場は埼玉県・広島県・愛知県の3県に分かれています。直線距離では河越城の戦いと桶狭間の戦いが約250km、厳島の戦いと桶狭間の戦いが約430km、河越城の戦いと厳島の戦いが約680km離れています。