戦国時代、城攻めにおいて水を用いた大規模な戦術が「水攻め」です。特に豊臣秀吉や石田三成による水攻めは有名で、地形を巧みに利用し、堤防を築いて城を水没させるという驚くべき策がとられました。これら「日本三大水攻め」の舞台となった城跡は、現在もその歴史を伝えています。
A.最も古いのは備中高松城の水攻めで、天正十年(1582年)に羽柴秀吉が行いました。続いて天正十三年(1585年)に紀州の太田城、天正十八年(1590年)に小田原征伐の際の忍城で水攻めが行われています。太田城の水攻めは備中高松城で成功させた戦術を、さらに大規模な包囲戦へ応用した例として知られます。
A.忍城は水攻めを受けても落城しませんでした。城は沈まず、増水で堤が決壊して寄せ手の側に被害が出たとも伝えられ、本城の小田原城が開城するまで持ちこたえました。一方、備中高松城は城主・清水宗治の切腹、太田城は太田左近ら五十余名の自刃によって、城内の人々の助命と引き換えに戦いを終えたと伝わります。
A.伝えられる堤の長さは、太田城が総延長七キロメートル近くと最も長く、高さは四から六メートルほどでした。備中高松城の堤は記録によって差があるものの長さ約三キロメートル、高さ七メートル前後とされ、わずか十二日ほどで完成させたとされます。忍城でも周囲に長大な堤が築かれ、堤の名残と伝わる石田堤の史跡が点在しています。
A.城跡は岡山県・埼玉県・和歌山県にあります。直線距離では、備中高松城と太田城が約140kmと比較的近く、太田城と忍城が約440km、備中高松城と忍城が約540km離れています。備中高松城は高松城址公園、忍城は忍城址公園として整備され、太田城は来迎寺の境内に城址を示す碑が建っています。
A.はっきりしていません。忍城では攻め手の大将となった石田三成が、備中高松城の先例にならって水攻めを行ったと伝えられています。ただし三成が水攻めを自ら望んだかどうかには諸説あり、豊臣秀吉の指示によるものとする見方も近年は有力になっています。