【概要】
豊臣秀吉による水攻めで知られる城。備中高松城の戦いでは、わずか12日間で約3kmに及ぶ堤防を築いて城を水没させるという奇策が用いられました。城主・清水宗治の切腹により開城となり、この戦いは秀吉の「中国大返し」のきっかけともなりました。現在は歴史公園として整備されています。
【歴史】
天正十年(1582年)、織田信長の命を受けて中国地方へ進軍した羽柴秀吉は、毛利方の武将・清水宗治が守る備中高松城を攻めましたが、周囲を深田と沼地に囲まれたこの城は容易に落ちませんでした。そこで軍師・黒田官兵衛の進言により、城の南側に長大な堤防を築いて足守川などの水を引き込む水攻めが決行されたと伝わります。折しも梅雨の増水期と重なり、城はまたたく間に水の中へ孤立していきました。
【特徴】
備中高松城の水攻めで築かれた堤は、記録によって差があるものの長さ約三キロメートル、高さ七メートル前後と伝えられ、これをわずか十二日ほどで完成させたとされます。土を詰めた俵を並べて基礎とする工法が取られ、近年の発掘調査でも幅二十四メートルほどにわたる土俵の跡が確認されました。城を力で落とすのではなく水に沈めて孤立させるという発想は、当時としては前代未聞の大胆な戦術でした。
【見どころ】
岡山県岡山市にある城跡は高松城址公園として整備され、本丸跡や清水宗治の首塚、自刃の地などを静かに巡ることができます。園内の資料館では水攻めの様子を描いた絵図や出土品が展示され、当時の情景を具体的に思い描くことができます。東へ少し離れた蛙ヶ鼻には堤防の遺構が国の史跡として残り、水攻め史跡公園として公開されています。初夏には堀跡を埋め尽くす蓮の花も見事です。
【トリビア】
水攻めのさなか、京都で本能寺の変が起こり織田信長が討たれます。秀吉はこの報を伏せたまま毛利方と和睦を結び、城主・清水宗治は城兵と領民の助命と引き換えに、湖と化した水面に舟を浮かべて切腹したと伝わります。その潔い最期は武士の鑑として語り継がれてきました。秀吉は直後に軍を返して京都へ急行しており、世に言う中国大返しの起点となった戦いでもあります。




