徳川四天王

徳川四天王

徳川四天王は、徳川家康の天下取りを支えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人の重臣を、仏法を守護する四天王になぞらえた呼び名です。四人はそろって家臣団を代表する徳川十六神将にも数えられ、最年長の忠次を除く三人は徳川三傑とも呼ばれます。1590年の関東移封では忠勝・康政・直政が関東の要地に十万石以上で配されました。四天王という呼び名は後世になって広まったものとされます。

日本名数>徳川四天王
榊原康政
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 群馬県 館林市

榊原康政

(さかきばらやすまさ)

榊原康政は1548年に三河で生まれ、少年のころ家康の小姓となって「康」の一字を与えられた重臣です。武勇に加えて学問や書にも通じ、小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉を痛烈に非難する檄文を書いたと伝わります。1590年に上野館林十万石を与えられて館林城と城下を整え、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に従いました。1606年に館林で世を去っています。

榊原康政の詳細を見る »
井伊直政
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 群馬県 高崎市

井伊直政

(いいなおまさ)

井伊直政は1561年に遠江の井伊谷で生まれ、十五歳で家康に見いだされた徳川四天王の最年少です。武田家の旧臣を率いた赤備えの部隊で知られ、1590年には上野箕輪十二万石を与えられて徳川家臣のなかで最大の所領を得ました。関ヶ原の戦いで先陣を切り、戦後は近江の佐和山へ移りましたが、1602年に世を去り、新しい城を築く構想は子の代に彦根城として実を結びました。

井伊直政の詳細を見る »
本多忠勝
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 千葉県 大多喜町

本多忠勝

(ほんだただかつ)

本多忠勝は1548年に三河で生まれ、少年のころから家康に仕えて数々の合戦で先陣を務めた猛将です。天下三名槍の一つ蜻蛉切を振るい、生涯で五十を超える戦いに出ながら傷を負わなかったと伝わります。1590年の関東移封で上総大多喜十万石を与えられて大多喜城を築き直し、関ヶ原の戦いの翌年に伊勢の桑名へ移って、1610年に桑名で世を去りました。

本多忠勝の詳細を見る »
酒井忠次
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 愛知県 豊橋市

酒井忠次

(さかいただつぐ)

酒井忠次は徳川四天王の筆頭に数えられる最年長の重臣で、家康の叔母を妻に迎えた譜代の重鎮です。今川方から明け渡された吉田城を任され、東三河の国衆を束ねる旗頭として二十年余りこの城を拠点にしました。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させたとされます。1588年に家督を子の家次に譲って京に移り、1596年に七十歳で世を去りました。

酒井忠次の詳細を見る »

❓ 徳川四天王のよくある質問

Q.徳川四天王はなぜ「四天王」と呼ばれるのですか?

A.徳川家康の天下取りを支えた四人の重臣を、仏法を守護する四天王になぞらえた呼び名です。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人を指し、この呼び名は後世になって広まったものとされます。

Q.徳川四天王と徳川三傑はどう違いますか?

A.徳川三傑は、徳川四天王から最年長の酒井忠次を除いた本多忠勝・榊原康政・井伊直政の三人を指す呼び名です。四天王の四人はそろって、家臣団を代表する徳川十六神将にも数えられています。

Q.徳川四天王の筆頭は誰ですか?

A.酒井忠次が筆頭に数えられます。1527年生まれの最年長で、家康の叔母にあたる碓井姫を妻とし、譜代の家臣のなかでも別格の立場にありました。本多忠勝と榊原康政はともに1548年、最年少の井伊直政は1561年の生まれです。

Q.徳川四天王はそれぞれどんな武将として知られていますか?

A.酒井忠次は長篠の戦いでの奇襲、本多忠勝は名槍の蜻蛉切、井伊直政は赤備えの部隊で知られ、榊原康政は学問や書にも通じた武将でした。忠次は鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させたとされ、忠勝は生涯で五十を超える戦いに出ながら傷を負わなかったと伝わります。直政の部隊は甲冑から旗指物までを赤一色でそろえていました。

Q.徳川四天王のゆかりの地はどこにありますか?

A.酒井忠次の吉田城跡は愛知県豊橋市、ほかの三人の城は1590年の関東移封で与えられた千葉県と群馬県の所領にあります。本多忠勝の大多喜城は大多喜町、榊原康政の館林城跡は館林市、井伊直政の箕輪城跡は高崎市です。忠次は関東移封より前に隠居していたため、関東の城に入りませんでした。直線距離では、最も近い館林と高崎が約60km、最も離れた豊橋と大多喜が約270kmです。

📍 所在地マップ