徳川四天王は、徳川家康の天下取りを支えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人の重臣を、仏法を守護する四天王になぞらえた呼び名です。四人はそろって家臣団を代表する徳川十六神将にも数えられ、最年長の忠次を除く三人は徳川三傑とも呼ばれます。1590年の関東移封では忠勝・康政・直政が関東の要地に十万石以上で配されました。四天王という呼び名は後世になって広まったものとされます。
A.徳川家康の天下取りを支えた四人の重臣を、仏法を守護する四天王になぞらえた呼び名です。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人を指し、この呼び名は後世になって広まったものとされます。
A.徳川三傑は、徳川四天王から最年長の酒井忠次を除いた本多忠勝・榊原康政・井伊直政の三人を指す呼び名です。四天王の四人はそろって、家臣団を代表する徳川十六神将にも数えられています。
A.酒井忠次が筆頭に数えられます。1527年生まれの最年長で、家康の叔母にあたる碓井姫を妻とし、譜代の家臣のなかでも別格の立場にありました。本多忠勝と榊原康政はともに1548年、最年少の井伊直政は1561年の生まれです。
A.酒井忠次は長篠の戦いでの奇襲、本多忠勝は名槍の蜻蛉切、井伊直政は赤備えの部隊で知られ、榊原康政は学問や書にも通じた武将でした。忠次は鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させたとされ、忠勝は生涯で五十を超える戦いに出ながら傷を負わなかったと伝わります。直政の部隊は甲冑から旗指物までを赤一色でそろえていました。
A.酒井忠次の吉田城跡は愛知県豊橋市、ほかの三人の城は1590年の関東移封で与えられた千葉県と群馬県の所領にあります。本多忠勝の大多喜城は大多喜町、榊原康政の館林城跡は館林市、井伊直政の箕輪城跡は高崎市です。忠次は関東移封より前に隠居していたため、関東の城に入りませんでした。直線距離では、最も近い館林と高崎が約60km、最も離れた豊橋と大多喜が約270kmです。