御三卿は、江戸城の田安門・一橋門・清水門の内側に屋敷を構えた田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の三家をまとめた呼び名で、家の名もそれぞれの門に由来します。8代将軍吉宗の子の宗武・宗尹と、9代家重の子の重好を祖とし、将軍家に跡継ぎが絶えたときに備える家とされました。城と藩を持つ大名ではなく将軍家の家族として扱われ、一橋家からは11代家斉と15代慶喜の二人の将軍が出ています。
A.御三卿の家の名は、屋敷を構えた江戸城の門の名に由来します。田安徳川家は田安門、一橋徳川家は一橋門、清水徳川家は清水門の内側に屋敷を与えられました。田安門の名は付近にあった田安明神に由来するという説が知られ、一橋の名は日本橋川に丸木橋が一本だけ架けられていたことに由来すると伝えられます。
A.最も遅く成立したのは清水徳川家です。1759年(宝暦9年)に徳川重好が清水門内に屋敷を与えられたのが始まりで、祖が吉宗の子ではなく孫にあたる点でもほかの二家と異なります。田安徳川家は1731年(享保16年)ごろから田安家と呼ばれるようになったとされ、一橋徳川家は元文から寛保にかけてのころに始まりました。
A.御三卿は城と藩を持つ大名ではなく、将軍家の家族として扱われた家です。田安徳川家の領地も諸国に分かれた賄料の形で与えられ、城を構える藩ではありませんでした。将軍家に跡継ぎが絶えたときに備える家とされ、諸大名へ養子を送り出す家でもありました。
A.一橋徳川家から11代家斉と15代慶喜の二人の将軍が出ています。家斉は2代当主治済の嫡男で、将軍家の養子となって約50年にわたり在職しました。慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男で、1847年(弘化4年)に一橋家を継ぎ、1866年(慶応2年)に15代将軍となっています。
A.御三卿の屋敷跡はいずれも東京都千代田区にあります。田安徳川家と清水徳川家の屋敷跡は北の丸公園の中で隣り合い、重要文化財の田安門と清水門が残ります。一橋徳川家の屋敷跡は平川門に近い大手町の一角で、白山通り沿いに碑が立ち、北の丸公園からも歩いて回れる距離です。