【概要】
本多忠勝は1548年に三河で生まれ、少年のころから家康に仕えて数々の合戦で先陣を務めた猛将です。天下三名槍の一つ蜻蛉切を振るい、生涯で五十を超える戦いに出ながら傷を負わなかったと伝わります。1590年の関東移封で上総大多喜十万石を与えられて大多喜城を築き直し、関ヶ原の戦いの翌年に伊勢の桑名へ移って、1610年に桑名で世を去りました。
【歴史】
本多忠勝は1548年、三河国額田郡蔵前、いまの岡崎市に生まれ、少年のころから家康に仕えました。1572年の一言坂の戦いでは、武田勢に追われて退く徳川方の殿を務めて名を上げます。1590年の関東移封では、安房の里見氏に備える要地として上総大多喜十万石を与えられ、城を大きく改修して城下町を整えました。1601年には伊勢の桑名へ移り、1610年に六十三歳で没しています。
【特徴】
本多忠勝は鹿の角をかたどった脇立の兜をかぶり、天下三名槍の一つ蜻蛉切を手に戦場の先頭に立ちました。穂先にとまったトンボが二つに切れたという話が槍の名の由来とされます。生涯で五十を超える合戦に出て一度も傷を負わなかったと語り継がれ、一言坂の戦いのあとには「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とうたわれたと伝わります。
【見どころ】
本多忠勝が築き直した大多喜城は、千葉県大多喜町にある城山の上に築かれた平山城です。本丸跡は県の史跡で、いまの天守は1975年に江戸時代の絵図をもとに建てられた模擬天守です。県立中央博物館の分館として使われてきた建物は2021年12月から休館が続いており、公開の再開や運営の形は変わることがあるため、訪れる前に最新の案内を確かめておくと安心です。城下の良玄寺には、忠勝と子の忠朝の墓があります。
【トリビア】
大多喜城の二の丸跡にあたる県立大多喜高校の敷地には、大井戸と薬医門が残ります。大井戸は日本一とも称され、日照りの夏にも水をたたえていたことから「底知らずの井戸」と呼ばれてきました。江戸時代の大多喜城に天守が本当にあったのかは、研究者の間でも見方が分かれています。忠勝が晩年に小刀で名を彫っていて手を切り、それが生涯ただ一つの傷だったという俗説も残ります。
