【概要】
酒井忠次は徳川四天王の筆頭に数えられる最年長の重臣で、家康の叔母を妻に迎えた譜代の重鎮です。今川方から明け渡された吉田城を任され、東三河の国衆を束ねる旗頭として二十年余りこの城を拠点にしました。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山砦への奇襲を成功させたとされます。1588年に家督を子の家次に譲って京に移り、1596年に七十歳で世を去りました。
【歴史】
酒井忠次は1527年に三河で生まれ、家康より十五歳年上の家臣として松平家を支えました。1564年付けの家康の判物で東三河の支配を委ねられ、今川方から明け渡された吉田城に入ります。1567年ごろには東三河の国衆や松平一族を率いる旗頭と位置づけられました。1588年に家督を嫡男の家次へ譲ると、豊臣秀吉の計らいで京の桜井屋敷に移り、1596年に七十歳で没しました。
【特徴】
酒井忠次は家康の叔母にあたる碓井姫を妻とし、譜代の家臣のなかでも別格の立場にありました。家臣団を東西に分けて束ねる体制では東の旗頭を担い、合戦では先鋒や別動隊の指揮を任されています。1575年の長篠の戦いでは、武田方の鳶ヶ巣山砦に夜襲をかける策を織田信長に進言してみずから別動隊を率い、砦を落として勝利の足がかりをつくったと伝わります。
【見どころ】
酒井忠次が城主を務めた吉田城の跡は、愛知県豊橋市にある豊橋公園の一帯に広がっています。いま残る石垣の骨格は、忠次の後に十五万石余りで入った池田輝政の時代に築かれたものとされます。豊川に臨む本丸の北西隅には1954年に模擬再建された鉄櫓が立ち、内部は無料で見学できますが、開館日や時間は変わることがあります。石垣には刻印のある石が多く、川へ下る階段の近くなどで探せます。
【トリビア】
酒井忠次は「えびすくい」(海老すくい)と呼ばれる芸を得意とし、1586年に家康が北条氏政と会見した酒宴でも披露したと伝わります。吉田城跡の発掘調査では、忠次の時代に城が改修され、新たな堀が掘られていたことも確かめられました。忠次は1590年の関東移封より前に隠居していたため、四天王でただ一人、関東の城に入りませんでした。吉田城跡は2017年に続日本100名城に選ばれています。
