春日山城を本拠に越後を治めた上杉謙信の家臣のうち、先鋒で知られた柿崎景家、政務と外交を担った直江景綱、琵琶島城主の宇佐美定満、川中島で殿軍を務めた甘粕景持の四人を並べたのが上杉四天王です。『上杉将士書上』などに見える後世の呼び名とされ、書物によって顔ぶれは異なります。『甲越信戦録』は直江景綱の代わりに直江兼続を挙げており、中条藤資や色部勝長を重臣の代表に数える見方もあります。
A.上杉四天王の顔ぶれは書物によって異なります。柿崎景家・直江景綱・宇佐美定満・甘粕景持の四人を並べたのが上杉四天王で、『上杉将士書上』などに見える後世の呼び名とされます。『甲越信戦録』は直江景綱の代わりに直江兼続を挙げており、中条藤資や色部勝長を重臣の代表に数える見方もあります。
A.直江兼続は直江景綱の実子ではなく、娘婿として直江家の名跡を受け継いだ人物です。景綱が1577年に没すると、直江家は娘お船の夫の信綱が継ぎました。信綱が1581年に春日山城内の刃傷沙汰に巻き込まれて落命したのち、上杉景勝の命でお船と結ばれた樋口兼続が家を継いで直江兼続となりました。
A.1561年の第四次川中島の戦いでは、柿崎景家が先鋒、甘粕景持が殿軍を務めたと伝わります。柿崎景家は武田方の陣へ激しく攻めかかったとされ、甘粕景持は千曲川の雨宮の渡しに残って、妻女山から迫る武田方の別働隊を食い止める役を担いました。景持の采配の見事さに、武田方が謙信自身が殿にいると見誤ったという逸話も残ります。
A.小説やドラマに登場する軍師像は、史実の宇佐美定満とは分けて考える必要があります。名軍師の宇佐美駿河守定行は、江戸時代に紀州藩で越後流の軍学を唱えた宇佐美定祐が先祖として描いた人物で、その事績には後世の創作が多く含まれるとされます。確かな史料から分かる定満は、琵琶島城主として柏崎の海辺を押さえた古参の重臣です。
A.ゆかりの地は新潟県と長野県にあります。新潟県には柿崎景家の墓が残る上越市の楞厳寺、直江景綱の本与板城跡がある長岡市、宇佐美定満の琵琶島城跡がある柏崎市があり、長野県千曲市には甘粕景持ゆかりの雨宮の渡しの跡があります。直線距離では柿崎景家と宇佐美定満のゆかりの地が約16km、直江景綱と甘粕景持のゆかりの地が約130km離れています。