北条五代は、戦国時代に相模国の小田原を本拠として関東の大半を治めた後北条氏の五人の当主、北条早雲(伊勢宗瑞)・氏綱・氏康・氏政・氏直を指す呼び名です。鎌倉幕府の執権北条氏と区別して後北条氏とも呼ばれます。伊豆への進出から天正18年(1590年)の小田原征伐で降伏するまで、およそ百年にわたって関東に勢力を張り、検地や虎の印判状を使った先進的な領国経営でも知られます。
A.北条早雲は生涯「北条」を名乗らず、本人の名乗りは伊勢新九郎盛時、出家してからは早雲庵宗瑞でした。名字を伊勢から北条へ改めたのは、二代目の北条氏綱です。大永3年(1523年)ごろの改姓で、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の名跡を名乗り、相模や武蔵を治める正統性を示そうとしたと考えられています。執権北条氏と区別して、後北条氏とも呼ばれます。
A.北条五代は、伊豆への進出から天正18年(1590年)の小田原征伐で降伏するまで、およそ百年にわたって関東に勢力を張りました。北条早雲は明応2年(1493年)ごろに伊豆へ討ち入り、やがて小田原を手に入れて関東進出の足場を築いています。検地や虎の印判状を使った先進的な領国経営でも知られます。
A.天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏は降伏し、北条氏政は弟の氏照とともに切腹しました。当主の北条氏直は自らの切腹と引き換えに城兵の助命を願い出ましたが、秀吉は開戦の責任を氏政と氏照に問い、徳川家康の婿である氏直は命を助けて高野山へ追放しました。氏直は翌年赦免されたものの、同じ年のうちに大坂で病のため世を去りました。
A.神奈川県箱根町の早雲寺の境内の奥に、江戸時代に子孫の狭山藩主が建てた北条五代の墓が並びます。早雲寺は北条氏綱が父ゆかりの寺として箱根湯本に建てた寺ですが、小田原征伐ののちに焼き払われ、氏綱や氏康の墓所だった塔頭は所在がわからなくなりました。神奈川県小田原市には、小田原駅の東口近くに北条氏政・氏照の墓所もあります。
A.北条早雲が家臣への心得を説いたと伝わる『早雲寺殿廿一箇条』は、早起きや身だしなみ、言葉づかいなど日々の戒めを並べた家訓です。「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は、北条氏綱が跡を継ぐ氏康に書き残した五か条の訓戒の結びにあると伝えられます。北条氏康も没する前に、破れた武田氏との同盟を結び直すよう言い残したとされます。