日本三忠臣

日本三忠臣

日本三忠臣(にほんさんちゅうしん)とは、江戸時代の儒学者・安東省菴の『三忠伝』などに記された、日本の歴史における特に忠義に厚かったとされる3人の人物、平重盛、藤原藤房、楠木正成を指します。

日本三大図鑑>日本三忠臣
平重盛
🏯 歴史
📍 京都府 京都市

平重盛

(たいらのしげもり)

平重盛は平清盛の嫡男として保延四年に生まれ、正二位内大臣まで昇った平安時代末期の武将で、六波羅の小松第に住んだことから「小松殿」と呼ばれました。父清盛と後白河法皇の間に立って朝廷への忠義を守ろうとし、『日本外史』はその苦悩を「忠ならんと欲すれば孝ならず」と表しました。京都府京都市の小松谷には山荘跡に正林寺が建ち、治承三年に四十二歳で病没しています。

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藤原藤房
🏯 歴史
📍 京都府 京都市

藤原藤房

(ふじわらのふじふさ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿で、万里小路藤房の名でも知られます。後醍醐天皇の側近として倒幕に尽力し、建武の新政では恩賞方などの要職を務めました。『太平記』によれば、恩賞の不公平や政治の乱れを繰り返し諫めても聞き入れられず、建武元年に突然出家して姿を消したと伝わり、その後の消息は分かっていません。

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楠木正成
🏯 歴史
📍 兵庫県 神戸市

楠木正成

(くすのきまさしげ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。後醍醐天皇の呼びかけに応じ、寡兵で幕府軍と戦いました。湊川の戦いで足利尊氏に敗れて自害するまで、南朝(吉野朝廷)に忠義を尽くした「大楠公」として知られています。

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❓ 日本三忠臣のよくある質問

Q.日本三忠臣は誰が選んだのですか?

A.江戸時代の儒学者・安東省菴の『三忠伝』などに記された三人です。安東省菴は、平重盛、藤原藤房、楠木正成を、日本の歴史において特に忠義に厚かった人物として挙げました。三人はいずれも朝廷や天皇への忠義を示した人物として称えられています。

Q.平重盛が忠臣として称えられるのはなぜですか?

A.権勢を強める父の清盛と後白河法皇との間に立ち、朝廷への忠義を最後まで守ろうとしたためです。『平家物語』には重盛が清盛を涙ながらに諫める「教訓状」の場面が描かれ、頼山陽の『日本外史』はその苦しみを「忠ならんと欲すれば孝ならず」と表しました。

Q.藤原藤房はほかの二人とどう違いますか?

A.日本三忠臣のうち、戦場ではなく諫言と隠遁によって忠義を示した人物です。後醍醐天皇の側近として建武の新政の実務を支え、恩賞の配分の不公平などを天皇に繰り返し諫言したと伝わります。建武元年の十月、三十九歳のときに突然出家して姿を消し、その後の消息は分かっていません。

Q.楠木正成はどのような最期を遂げたのですか?

A.建武三年の湊川の戦いで足利尊氏の大軍に敗れ、自害しました。勝ち目がないと知りながら天皇の命に従って出陣し、弟の正季とともに最期を遂げたとされます。兵庫県神戸市の湊川神社は正成を祭神として明治五年に創建され、境内には墓所と伝わる墓碑があります。

Q.日本三忠臣ゆかりの地はどこにありますか?

A.平重盛は京都府京都市の小松谷、藤原藤房は同じ京都市の岩倉、楠木正成は兵庫県神戸市の湊川神社がゆかりの地です。直線距離では平重盛と藤原藤房のゆかりの地が約5km、この二か所から楠木正成のゆかりの地まではともに約70km離れています。

📍 所在地マップ

愛知県岡山県岐阜県京都府香川県三重県滋賀県大阪府徳島県奈良県福井県兵庫県和歌山県213平重盛藤原藤房楠木正成50 km地図データ: Natural Earth
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