【概要】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。後醍醐天皇の呼びかけに応じ、寡兵で幕府軍と戦いました。湊川の戦いで足利尊氏に敗れて自害するまで、南朝(吉野朝廷)に忠義を尽くした「大楠公」として知られます。
【歴史】
楠木正成は生年が明らかでない河内の武将で、後醍醐天皇の呼びかけに応じて幕府打倒の兵を挙げました。元弘元年の赤坂城の戦い、元弘三年の千早城の戦いでは、少数の兵で幕府の大軍を長く引きつけ、鎌倉幕府が滅びる大きな要因をつくります。建武三年の湊川の戦いに敗れて自害し、のちに江戸時代の儒学者である安東省菴によって日本三忠臣の一人に数えられました。
【特徴】
楠木正成の戦い方には、正面から力でぶつかることを避け、地形の利を最大限に生かすという大きな特色がありました。千早城では金剛山の険しさを利用し、落石や夜襲を駆使して数十倍とも伝わる幕府軍を数か月にわたって足止めしています。一方、湊川の戦いでは足利尊氏の大軍に勝ち目がないと知りながら天皇の命に従って出陣し、弟の正季とともに壮絶な最期を遂げました。
【見どころ】
兵庫県神戸市にある湊川神社は、楠木正成を祭神として明治五年に創建された神社で、今も多くの参拝者が足を運んでいます。境内には正成の墓所と伝わる墓碑があり、水戸藩主の徳川光圀が建てたものとして知られています。皇居外苑には明治期に建てられた勇壮な騎馬像が置かれ、生地に近い千早赤阪の城跡とあわせて巡ると、その生涯への理解が深まります。
【トリビア】
「大楠公」という尊称は明治期に広く用いられるようになったもので、明治十三年には正一位が追贈されています。湊川の戦いの最期に弟の正季が「七度生まれ変わっても朝敵を滅ぼしたい」と語ったという『太平記』の一節は、のちに「七生報国」の言葉となって伝えられました。現代では忠臣像だけでなく、地形を読み切った戦術家としての評価も進んでいます。




