【概要】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。後醍醐天皇の側近として倒幕に尽力しましたが、建武の新政における恩賞の不公平などを諫言し、受け入れられずに出家して隠遁しました。
【歴史】
藤原藤房は永仁四年に生まれた公卿で、大納言の万里小路宣房の子であることから万里小路藤房の名でも呼ばれます。後醍醐天皇の側近として仕え、元弘元年に倒幕の計画が露見すると天皇に従って笠置山へ逃れ、捕らえられて翌年には常陸国へ流されました。鎌倉幕府が滅びると都に戻って復官し、江戸時代の安東省菴は『三忠伝』で藤房を日本三忠臣の一人に数えています。
【特徴】
藤原藤房は建武の新政において恩賞方の頭人や雑訴決断所の寄人といった要職を務め、新しい政権の実務を支えた人物でした。しかし恩賞の配分の不公平や政治の乱れが目立つようになると、天皇に対して繰り返し諫言したと伝わります。ところが建武元年の十月、三十九歳のときに突然出家して姿を消し、その後の消息はまったく分かっていません。官位は正二位・中納言に至りました。
【見どころ】
京都府京都市にある岩倉の地は、藤房が不二房という僧のもとで髪を落としたと『太平記』が伝える場所で、そのゆかりを訪ねて足を運ぶ人が今も見られます。父の宣房が仕えた万里小路家に関わる旧跡も市中に点在し、南北朝の動乱に思いを寄せながら歩くことができます。後醍醐天皇が晩年に朝廷を開いた吉野の地をあわせて訪ねると、藤房の生きた時代がより立体的に見えてきます。
【トリビア】
藤原藤房の出家後の行方については各地にさまざまな伝承が生まれ、諸国を遍歴したとも、遠く離れた土地で静かに生涯を終えたとも語られてきました。『太平記』は藤房が天皇の面前で政治のありようを堂々と批判した場面を印象深く描き、後世の忠臣像を形づくっています。日本三忠臣のうち、戦場ではなく諫言と隠遁によって忠義を示した唯一の人物といえます。




