徳川御三家

徳川御三家

徳川御三家は、徳川家康の九男義直に始まる尾張徳川家、十男頼宣に始まる紀州徳川家、十一男頼房に始まる水戸徳川家の三家を指す呼び名です。徳川の姓と三つ葉葵の紋を許された別格の親藩で、将軍家に跡継ぎが絶えたときに後継を出す家と位置づけられました。実際に紀州家から八代吉宗と十四代家茂が将軍となり、水戸家に生まれた慶喜も十五代将軍に就いています。御三家の呼び方には、当初は将軍家と尾張・紀州の三家を指したという説もあります。

日本名数>徳川御三家
水戸徳川家
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 茨城県 水戸市

水戸徳川家

(みととくがわけ)

水戸徳川家は、徳川家康の十一男頼房を祖とし、水戸城を居城に常陸の北部を治めた御三家の一つです。藩主は参勤交代をせずに江戸に常住する定府とされ、家格は中納言どまりでしたが、俗に天下の副将軍と呼ばれました。二代光圀が始めた大日本史の編さんは水戸学を育み、九代斉昭の子の慶喜は一橋家を継いで十五代将軍となり、1867年に大政奉還を行いました。

水戸徳川家の詳細を見る »
尾張徳川家
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 愛知県 名古屋市

尾張徳川家

(おわりとくがわけ)

尾張徳川家は、徳川家康の九男義直を祖とし、名古屋城を居城に尾張一国などを治めた御三家の筆頭です。石高は61万9500石で御三家のうち最も大きく、家格も最上位とされました。将軍を一人も出さなかった一方、七代宗春は倹約を説く八代将軍吉宗に逆らって祭りや芝居を奨励し、名古屋の町に活気をもたらしました。家に伝わった大名道具は、いまも徳川美術館で受け継がれています。

尾張徳川家の詳細を見る »
紀州徳川家
🏯 歴史⛰️ 名所
📍 和歌山県 和歌山市

紀州徳川家

(きしゅうとくがわけ)

紀州徳川家は、徳川家康の十男頼宣を祖とし、和歌山城を居城に紀伊一国と伊勢・大和の一部を治めた御三家の一つです。石高は55万5000石で、尾張家と並んで大納言まで昇る家格を持ちました。五代吉宗が八代将軍となって享保の改革を進め、のちには十三代慶福が家茂と名を改めて十四代将軍に就くなど、御三家のなかで最も多くの将軍を出した家として知られます。

紀州徳川家の詳細を見る »

❓ 徳川御三家のよくある質問

Q.徳川御三家の三家はそれぞれ誰を祖とする家ですか?

A.尾張徳川家は徳川家康の九男義直、紀州徳川家は十男頼宣、水戸徳川家は十一男頼房を祖とします。三家は徳川の姓と三つ葉葵の紋を許された別格の親藩で、将軍家に跡継ぎが絶えたときに後継を出す家と位置づけられました。

Q.徳川御三家から将軍になったのは誰ですか?

A.紀州徳川家から八代吉宗と十四代家茂が将軍となり、水戸徳川家に生まれた慶喜も十五代将軍に就いています。家茂は紀州徳川家の十三代慶福が名を改めた人物で、慶喜は一橋家を継いでから将軍となりました。尾張徳川家は将軍を一人も出していません。

Q.徳川御三家の石高と家格にはどんな違いがありましたか?

A.石高は尾張徳川家が最も大きく、家格は尾張徳川家と紀州徳川家が大納言まで、水戸徳川家が中納言どまりでした。尾張徳川家は61万9500石で御三家の筆頭とされ、紀州徳川家は55万5000石を領しました。水戸徳川家ははじめ25万石で、江戸時代の中ごろに35万石となっています。

Q.水戸徳川家が「天下の副将軍」と呼ばれたのはなぜですか?

A.水戸徳川家の藩主が参勤交代をせず、江戸に常に住む定府の大名だったためです。将軍の身近に控えることから、後世には天下の副将軍と俗称されます。江戸の上屋敷は小石川にあり、その庭園はいまも東京の小石川後楽園として残っています。

Q.徳川御三家ゆかりの地はどこにあり、どのくらい離れていますか?

A.尾張徳川家は愛知県名古屋市の名古屋城、紀州徳川家は和歌山県和歌山市の和歌山城、水戸徳川家は茨城県水戸市の水戸城を居城としました。直線距離では、尾張徳川家と紀州徳川家が約190km、尾張徳川家と水戸徳川家が約350km、紀州徳川家と水戸徳川家が約540km離れています。

📍 所在地マップ

愛知県岐阜県京都府群馬県埼玉県山梨県滋賀県新潟県神奈川県静岡県石川県千葉県長野県富山県福井県福島県和歌山県312尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家100 km地図データ: Natural Earth
  1. 1尾張徳川家Google マップ
  2. 2紀州徳川家Google マップ
  3. 3水戸徳川家Google マップ