豊臣五大老は、秀吉の晩年に置かれた徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の五人を指し、幼い秀頼を支えるための合議の仕組みでした。ただし「大老」の語は同時代の史料に見えず後世の呼び名とされ、当時は「奉行」「年寄」などと呼ばれたとされます。小早川隆景を含めて六人だった時期や、利家の死後に子の利長が加わった時期もあったとされ、顔ぶれは終始一定ではありませんでした。
A.当時の呼び名ではなかったとされます。「大老」の語は同時代の史料に見えず後世の呼び名とされ、当時は「奉行」「年寄」などと呼ばれたとされます。秀吉の晩年に、幼い秀頼を支えるための合議の仕組みとして置かれました。
A.終始一定ではありませんでした。小早川隆景を含めて六人だった時期や、前田利家の死後に子の利長が加わった時期もあったとされます。利長は母の芳春院を人質として江戸へ送って戦を避け、そのまま五大老の座を引き継いだとされます。
A.最も若かったのは宇喜多秀家で、秀吉が没した年にはまだ二十七歳ほどでした。秀吉の猶子として厚い扱いを受け、妻は前田利家の娘の豪姫です。関ヶ原の後は八丈島へ流され、五大老の誰よりも長く生きて、1655年に84歳で世を去りました。
A.前田利家は1599年に病没していました。毛利輝元は西軍の総大将に担がれたものの戦場には出ず、周防・長門の二か国へ減らされました。宇喜多秀家は西軍の主力として敗れ八丈島へ流され、上杉景勝は1601年に米沢30万石へ減らされました。徳川家康は関ヶ原を経て江戸幕府を開きました。
A.前田利家は金沢城、毛利輝元は広島城、宇喜多秀家は岡山城を本拠としました。上杉景勝は春日山城から会津へ移され、関ヶ原の後は米沢城を居城としました。徳川家康は愛知県岡崎市の岡崎城内で生まれました。