【概要】
紀州徳川家は、徳川家康の十男頼宣を祖とし、和歌山城を居城に紀伊一国と伊勢・大和の一部を治めた御三家の一つです。石高は55万5000石で、尾張家と並んで大納言まで昇る家格を持ちました。五代吉宗が八代将軍となって享保の改革を進め、のちには十三代慶福が家茂と名を改めて十四代将軍に就くなど、御三家のなかで最も多くの将軍を出した家として知られます。
【歴史】
紀州徳川家の祖である徳川頼宣は1602年に生まれ、水戸などを経て駿河・遠江を与えられ、駿府城の主となりました。1619年に紀伊へ移されて和歌山城に入り、城を大きく広げて城下町を整えます。1716年には五代藩主吉宗が七代将軍家継の死去を受けて八代将軍となり、本家の跡を継ぎました。幕末には十三代慶福が将軍継嗣問題で一橋慶喜と争って勝ち、十四代将軍家茂となっています。
【特徴】
紀州徳川家は55万5000石を領し、紀伊一国に加えて伊勢の松坂や田丸の周辺にも所領を持っていました。南龍公とおくり名された頼宣は豪胆な人柄で知られ、1651年の慶安の変では由比正雪との関わりを疑われたと伝わります。吉宗が将軍となったあとは、その子や孫から田安家・一橋家・清水家の御三卿が立てられました。紀州から江戸へ移った家臣が幕政に多く登用されたことも、この家ならではの特色です。
【見どころ】
和歌山城の御橋廊下は、二の丸と西の丸を隔てる内堀に架けられた屋根付きの橋で、藩主が二の丸の奥と西の丸の庭園を行き来するために使ったとされます。両岸に高低差があるため橋そのものが斜めに傾いているのが珍しく、2006年に江戸時代の資料をもとに復元されました。全長は約27メートルで、床の段差に足をかけながら渡ります。渡った先の西の丸には、国の名勝に指定された紅葉渓庭園が広がっています。
【トリビア】
八代将軍吉宗は、紀州藩主の時代に倹約や財政の立て直しに取り組んだ経験を享保の改革に生かしたといわれます。和歌山城の天守は1846年の落雷で焼け、幕府の特別な許しを得て再建されましたが、1945年の空襲で再び焼失し、いまの天守は1958年に外観を再現して建てられたものです。明治以降、十五代当主の頼倫は東京の邸内に南葵文庫を開き、集めた蔵書を広く人々に公開しました。
