江戸の三大改革は、江戸時代の中ごろから後期にかけて幕府が行った享保の改革・寛政の改革・天保の改革の三つをまとめた呼び名です。八代将軍の徳川吉宗、老中首座の松平定信、同じく老中首座の水野忠邦がそれぞれ中心となり、財政難や飢饉、物価の高騰に倹約と統制で立ち向かいました。三つを並べて呼ぶようになった由来ははっきりしませんが、三大改革としてまとめる見方は戦前の研究書にも見られ、いまは教科書でもおなじみの組み合わせとされています。
A.享保の改革は八代将軍の徳川吉宗、寛政の改革は老中首座の松平定信、天保の改革は同じく老中首座の水野忠邦が中心となりました。享保の改革は享保元年(1716年)から30年ほど続きましたが、寛政の改革は6年ほど、天保の改革は2年あまりで終わっています。
A.いずれも幕府の財政難や社会の混乱を立て直すために行われました。享保の改革の前には元禄期の出費や金銀の産出の減少で財政が苦しく、寛政の改革は天明の飢饉と打ちこわしで揺らいだ幕府の立て直しを目指しました。天保の改革は、天保の飢饉や大塩平八郎の乱、外国船の接近で内外の危機が深まるなかで始まっています。
A.三つとも倹約を柱にしながら、それぞれ独自の政策を打ち出しました。享保の改革では上げ米や新田開発、目安箱、公事方御定書が知られます。寛政の改革では囲米や七分積金、棄捐令、寛政異学の禁が行われ、天保の改革では株仲間の解散や人返しの令、上知令が出されました。享保の改革は、のちの寛政・天保の改革の手本とされました。
A.どちらも厳しさへの不満を招きました。寛政の改革は、白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき、という狂歌で風刺されました。天保の改革では上知令が大名や旗本の強い反対にあって水野忠邦の失脚の決め手となり、忠邦が罷免された日には屋敷に町人が押し寄せて石を投げたといわれます。
A.東京都文京区の小石川植物園、福島県白河市の南湖公園、静岡県浜松市の浜松城公園がゆかりの地です。小石川植物園には享保の改革の目安箱から生まれた小石川養生所の井戸が残ります。南湖公園は松平定信が築いた庭園で、日本で最も古い公園ともいわれます。浜松城は水野忠邦が藩主を務めた城で、出世城とも呼ばれます。