維新の三傑

維新の三傑

維新の三傑は、明治維新を成し遂げた中心人物として並び称される、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通、長州藩の木戸孝允の三人を指す呼び名です。西郷と大久保は鹿児島城下の加治屋町で同じ町内に育った幼なじみで、木戸は萩城下の藩医の家に生まれました。三人は薩長同盟から王政復古、廃藩置県へと新しい国づくりを進めましたが、明治10年(1877年)から翌年にかけて相次いで世を去りました。

日本名数>維新の三傑
木戸孝允
🏯 歴史
📍 山口県 萩市

木戸孝允

(きどたかよし)

木戸孝允は、天保4年(1833年)に萩城下の呉服町で藩医和田昌景の子として生まれた長州藩士です。幼くして桂家の養子となり、桂小五郎の名で幕末を駆け抜けました。薩長同盟を結んで倒幕の道を開き、明治政府では五箇条の御誓文の作成に関わり、版籍奉還や廃藩置県を推し進めました。生家は山口県萩市にある木戸孝允旧宅として残っています。

木戸孝允の詳細を見る »
西郷隆盛
🏯 歴史
📍 鹿児島県 鹿児島市

西郷隆盛

(さいごうたかもり)

西郷隆盛は、文政10年(1828年)に鹿児島県鹿児島市にある加治屋町で生まれた薩摩藩士です。藩主島津斉彬に見いだされて国事に奔走し、薩長同盟や江戸城の無血開城に大きな役割を果たしました。明治政府では参議として廃藩置県を支えましたが、明治6年(1873年)の政変で職を辞して帰郷し、明治10年(1877年)の西南戦争で生涯を閉じました。

西郷隆盛の詳細を見る »
大久保利通
🏯 歴史
📍 鹿児島県 鹿児島市

大久保利通

(おおくぼとしみち)

大久保利通は、文政13年(1830年)に鹿児島城下の高麗町で生まれ、幼いころに加治屋町へ移って西郷隆盛とともに育った薩摩藩士です。島津久光のもとで藩を動かし、王政復古の実現に力を尽くしました。明治政府では版籍奉還や廃藩置県を進め、初代の内務卿として殖産興業を推し進めましたが、明治11年(1878年)に東京の紀尾井坂で暗殺されました。

大久保利通の詳細を見る »

❓ 維新の三傑のよくある質問

Q.維新の三傑の三人はどこの出身ですか?

A.西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩、木戸孝允は長州藩の出身です。西郷隆盛と大久保利通は鹿児島城下の加治屋町で同じ町内に育った幼なじみで、大久保利通は高麗町で生まれて幼いころに加治屋町へ移りました。木戸孝允は萩城下の呉服町で藩医和田昌景の子として生まれています。

Q.維新の三傑はいつ亡くなったのですか?

A.三人は明治10年(1877年)から翌年にかけて相次いで世を去りました。西郷隆盛は明治10年(1877年)の西南戦争で生涯を閉じ、木戸孝允は同じ年に西南戦争のさなかの京都で病没しています。大久保利通は明治11年(1878年)に東京の紀尾井坂で暗殺されました。

Q.維新の三傑は明治政府でそれぞれどんな役割を果たしましたか?

A.三人は廃藩置県をはじめとする新しい国づくりを進めました。西郷隆盛は参議として廃藩置県の断行を支え、岩倉使節団が欧米を回る間は留守政府を預かりました。大久保利通は初代内務卿として殖産興業を推し進め、木戸孝允は五箇条の御誓文の草案に手を入れ、憲法の制定と議会の開設を早くから説きました。

Q.維新の三傑の西郷隆盛と大久保利通はなぜ対立したのですか?

A.朝鮮への使節派遣をめぐって意見が分かれたためです。西郷隆盛は明治6年(1873年)の政変で職を辞して帰郷し、のちに私学校の生徒らに推されて明治10年(1877年)の西南戦争で政府軍と戦いました。かつての盟友だった大久保利通は、西南戦争では政府の側に立っています。

Q.維新の三傑ゆかりの地はどこにあり、どのくらい離れていますか?

A.西郷隆盛誕生地と大久保利通生い立ちの地は鹿児島県鹿児島市、木戸孝允旧宅は山口県萩市にあります。鹿児島市の二か所は甲突川沿いにあり、同じ加治屋町の中で、歩いてすぐの距離です。鹿児島市の二か所から萩市の木戸孝允旧宅までは、どちらも直線距離で約320km離れています。

📍 所在地マップ

愛媛県岡山県宮崎県熊本県広島県高知県山口県大分県長崎県島根県福岡県312西郷隆盛大久保利通木戸孝允100 km地図データ: Natural Earth
  1. 1西郷隆盛Google マップ
  2. 2大久保利通Google マップ
  3. 3木戸孝允Google マップ