寛政の三奇人

寛政の三奇人

寛政の三奇人は、江戸時代の寛政年間(1789〜1801年)を中心に活躍した林子平・高山彦九郎・蒲生君平の三人をまとめた呼び名です。ここでいう奇人は変わり者のことではなく、世にまれなすぐれた人という意味で、寛政の三奇士とも呼ばれます。三人はいずれも諸国を旅して見聞を広め、海の守りの大切さや天皇を尊ぶ考えを説いて、のちの幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

日本名数>寛政の三奇人
林子平
🏯 歴史
📍 宮城県 仙台市青葉区

林子平

(はやししへい)

林子平は、元文3年(1738年)に江戸で生まれ、兄に従って仙台藩に移り住んだ江戸時代中期の経世家です。長崎などで海外の事情を学び、外国の脅威にいち早く備えるよう説いて『三国通覧図説』と『海国兵談』を著しました。幕府の咎めを受けて仙台で蟄居したまま世を去り、その墓は宮城県仙台市青葉区にある龍雲院の境内に残っていて、国の史跡に指定されています。

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蒲生君平
🏯 歴史
📍 栃木県 宇都宮市

蒲生君平

(がもうくんぺい)

蒲生君平は、明和5年(1768年)に下野国宇都宮の商家に生まれた江戸時代後期の儒学者です。戦国武将の蒲生氏郷の子孫という家の言い伝えから蒲生を名乗り、荒れていた歴代天皇の陵墓を自分の足で調べて『山陵志』を著しました。前方後円という言葉を初めて用いた人として知られ、栃木県宇都宮市にある蒲生神社に学問の神として祀られています。

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高山彦九郎
🏯 歴史
📍 群馬県 太田市

高山彦九郎

(たかやまひこくろう)

高山彦九郎は、延享4年(1747年)に上野国新田郡細谷村、いまの群馬県太田市細谷町に生まれた尊王家です。13歳で『太平記』を読んで志を立て、京都で公家や学者と交わりながら、北は陸奥から南は九州まで諸国を旅しました。寛政5年(1793年)に筑後国久留米で自刃し、生家の跡は遺髪塚とともに国の史跡となって、隣に記念館が建っています。

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❓ 寛政の三奇人のよくある質問

Q.寛政の三奇人の「奇人」とはどういう意味ですか?

A.変わり者という意味ではなく、世にまれなすぐれた人という意味です。寛政年間(1789〜1801年)を中心に活躍した林子平・高山彦九郎・蒲生君平の三人をまとめた呼び名で、寛政の三奇士とも呼ばれます。

Q.寛政の三奇人に共通するのはどんな点ですか?

A.三人とも諸国を旅して見聞を広め、海の守りの大切さや天皇を尊ぶ考えを説いた点です。林子平は江戸や長崎で世界の情勢を学び、高山彦九郎は京都を拠点に北は陸奥から南は九州まで歩き、蒲生君平は畿内の天皇陵を自分の足で調べました。その考えは、のちの幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

Q.寛政の三奇人はそれぞれどんな書物を残しましたか?

A.林子平は『三国通覧図説』と『海国兵談』、高山彦九郎は旅の見聞を記した克明な日記、蒲生君平は『山陵志』と『不恤緯』を残しました。『海国兵談』は寛政3年(1791年)にわずか38部が刊行され、翌年に幕府に版木を没収されています。君平は『山陵志』で古墳の形を前方後円と表し、前方後円墳という呼び名の生みの親とされます。

Q.寛政の三奇人はどのような最期を迎えましたか?

A.林子平と高山彦九郎は同じ寛政5年(1793年)に亡くなりました。林子平は幕府の咎めを受けて仙台で蟄居したまま56歳で世を去り、高山彦九郎は久留米の友人宅で理由を明かさないまま自刃し、47歳で生涯を閉じています。蒲生君平は在野の学者として過ごし、文化10年(1813年)に江戸で亡くなりました。

Q.寛政の三奇人のゆかりの地はどのくらい離れていますか?

A.林子平の墓がある宮城県仙台市青葉区の龍雲院、高山彦九郎記念館がある群馬県太田市、蒲生神社がある栃木県宇都宮市の三か所です。直線距離で最も近いのは太田市と宇都宮市の約60km、最も離れているのは仙台市と太田市の約260kmで、仙台市と宇都宮市は約210km離れています。

📍 所在地マップ

茨城県山形県新潟県長野県福島県132林子平高山彦九郎蒲生君平50 km地図データ: Natural Earth
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