寛政の三奇人は、江戸時代の寛政年間(1789〜1801年)を中心に活躍した林子平・高山彦九郎・蒲生君平の三人をまとめた呼び名です。ここでいう奇人は変わり者のことではなく、世にまれなすぐれた人という意味で、寛政の三奇士とも呼ばれます。三人はいずれも諸国を旅して見聞を広め、海の守りの大切さや天皇を尊ぶ考えを説いて、のちの幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
A.変わり者という意味ではなく、世にまれなすぐれた人という意味です。寛政年間(1789〜1801年)を中心に活躍した林子平・高山彦九郎・蒲生君平の三人をまとめた呼び名で、寛政の三奇士とも呼ばれます。
A.三人とも諸国を旅して見聞を広め、海の守りの大切さや天皇を尊ぶ考えを説いた点です。林子平は江戸や長崎で世界の情勢を学び、高山彦九郎は京都を拠点に北は陸奥から南は九州まで歩き、蒲生君平は畿内の天皇陵を自分の足で調べました。その考えは、のちの幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
A.林子平は『三国通覧図説』と『海国兵談』、高山彦九郎は旅の見聞を記した克明な日記、蒲生君平は『山陵志』と『不恤緯』を残しました。『海国兵談』は寛政3年(1791年)にわずか38部が刊行され、翌年に幕府に版木を没収されています。君平は『山陵志』で古墳の形を前方後円と表し、前方後円墳という呼び名の生みの親とされます。
A.林子平と高山彦九郎は同じ寛政5年(1793年)に亡くなりました。林子平は幕府の咎めを受けて仙台で蟄居したまま56歳で世を去り、高山彦九郎は久留米の友人宅で理由を明かさないまま自刃し、47歳で生涯を閉じています。蒲生君平は在野の学者として過ごし、文化10年(1813年)に江戸で亡くなりました。
A.林子平の墓がある宮城県仙台市青葉区の龍雲院、高山彦九郎記念館がある群馬県太田市、蒲生神社がある栃木県宇都宮市の三か所です。直線距離で最も近いのは太田市と宇都宮市の約60km、最も離れているのは仙台市と太田市の約260kmで、仙台市と宇都宮市は約210km離れています。