木戸孝允

(きどたかよし)
📍 中国山口県 萩市🏯 歴史

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【概要】

木戸孝允は、天保4年(1833年)に萩城下の呉服町で藩医和田昌景の子として生まれた長州藩士です。幼くして桂家の養子となり、桂小五郎の名で幕末を駆け抜けました。薩長同盟を結んで倒幕の道を開き、明治政府では五箇条の御誓文の作成に関わり、版籍奉還や廃藩置県を推し進めました。生家は山口県萩市にある木戸孝允旧宅として残っています。

【歴史】

木戸孝允は藩校明倫館で吉田松陰から兵学を学び、江戸では斎藤弥九郎の練兵館で神道無念流の剣を修めて塾頭を務めました。尊王攘夷の運動が激しくなると京都で長州藩の窓口として奔走しますが、元治元年(1864年)の池田屋事件や禁門の変で藩は苦境に立たされます。但馬の出石に身を潜めたのち帰藩し、慶応2年(1866年)には坂本龍馬の仲立ちで薩摩藩と同盟を結びました。

【特徴】

木戸孝允は、新しい国の制度づくりに力を注いだ政治家です。慶応4年(1868年)の五箇条の御誓文では、草案に手を入れて広く会議を興すという方針を盛り込みました。版籍奉還や廃藩置県では、出身の長州藩をまとめて改革を先導します。岩倉使節団の副使として欧米を視察したのちは、憲法の制定と議会の開設を早くから説きました。明治10年(1877年)、西南戦争のさなかに京都で病没しています。

【見どころ】

山口県萩市にある木戸孝允旧宅は、城下町の江戸屋横丁に面した木造瓦葺きの家で、国の史跡に指定されています。孝允は桂家の養子となったあとも、この生家で20歳ごろまで過ごしました。生まれた部屋や手習いの書、庭が残り、藩医の家らしく患者のための玄関も別に設けられています。周りには白壁と土塀の続く武家屋敷の町並みが広がり、菊屋家住宅や高杉晋作誕生地も歩いて巡れます。

【トリビア】

木戸孝允は、桂小五郎から木戸貫治、木戸準一郎と名を改めながら幕末を生き抜き、追っ手から何度も逃れたことから「逃げの小五郎」とも呼ばれました。京都で支え続けた芸妓の幾松は、のちに妻の松子となります。日記をこまめに付けたことでも知られ、残された日記は維新史の貴重な史料です。最期の病床では、西郷隆盛の身を案じる言葉を口にしたと伝わります。

📅 最終更新: 2026/10/25
木戸孝允
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です