戦国三大梟雄は、美濃を奪った斎藤道三、主家をしのぐ力を持った松永久秀、謀略で備前を手に入れた宇喜多直家の三人を指す呼び名です。梟雄とは、残忍でたけだけしく、策略に長けた人物という意味です。直家の代わりに北条早雲を入れる説もあります。ただし近年の研究では、道三の国盗りは父子二代によるもの、久秀の悪事の多くは後世の創作とされるなど、評価の見直しが進んでいます。
A.残忍でたけだけしく、策略に長けた人物という意味です。戦国三大梟雄は、美濃を奪った斎藤道三、主家をしのぐ力を持った松永久秀、謀略で備前を手に入れた宇喜多直家の三人を指します。宇喜多直家の代わりに北条早雲を入れる説もあります。
A.近年は、父の長井新左衛門尉との父子二代による出世とする説が有力です。昭和の岐阜県史の編纂で見つかった六角承禎の書状により、僧から武士への出世は父のもので、斎藤道三はそれを継いで国主に上りつめたとする見方が唱えられました。油売りから一代で国を盗ったという物語は、江戸時代の軍記や小説で広まったものです。
A.将軍足利義輝の殺害、主家三好氏の乗っ取り、東大寺大仏殿の焼き討ちのいずれも、近年の研究では松永久秀の仕業とは言い切れないとされています。1565年の永禄の変で久秀は大和にいて、襲撃に加わったのは子の久通らでした。1567年の大仏殿の焼失も戦いのさなかに起きた火災で、久秀が意図して焼いたとは言えないとされます。
A.敵将の暗殺や謀略を重ねたためです。宇喜多直家には敵を宴席に招いて討つといった逸話が多く残ります。ただし、そのイメージは江戸時代の軍記で強められたとの見方もあり、岡山市などは、儒学の目で主君を追った敗者として語られた面が大きいと紹介しています。城下町を開いた功績にも光が当てられています。
A.斎藤道三は1556年の長良川の戦いで子の義龍に敗れて命を落としました。松永久秀は1577年に織田信長に背き、信貴山城で自害しています。宇喜多直家は1582年の初めごろに岡山城で病没したとされ、三人のなかでただ一人、病で世を去った人物です。