一橋徳川家

(ひとつばしとくがわけ)
📍 関東東京都 千代田区🏯 歴史

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【概要】

一橋徳川家は、徳川吉宗の四男の宗尹が江戸城の一橋門内に屋敷を構えたことに始まる御三卿の一つです。2代治済の子が11代将軍家斉となり、幕末には水戸藩から迎えた慶喜がこの家を継いだのち15代将軍に就きました。御三卿のなかで将軍を二人出した家として知られ、門の名は千代田区の地名の一ツ橋として今に残っています。

【歴史】

一橋徳川家は、元文から寛保にかけてのころ、徳川宗尹が江戸城の一橋門内に屋敷を与えられたことに始まります。2代当主の治済は嫡男の家斉を将軍家の養子に送り、家斉は11代将軍として約50年にわたり在職しました。1847年(弘化4年)には水戸藩主徳川斉昭の七男の七郎麻呂が家を継いで一橋慶喜を名乗り、1866年(慶応2年)に15代将軍となっています。

【特徴】

一橋家は将軍家との結びつきの強さで際立ち、治済の子や孫は将軍家だけでなく御三家や他の御三卿にも次々と養子に入りました。幕末の将軍継嗣問題では、英明と評された一橋慶喜を推す大名たちが一橋派と呼ばれ、紀州の慶福を推す南紀派と争っています。慶喜が宗家を継いだあとは、尾張藩主を務めた徳川茂徳が茂栄と名を改めて一橋家を継ぎました。

【見どころ】

一橋家の屋敷があったのは、平川門に近いいまの大手町の一角で、白山通り沿いに建つ丸紅のビルの前に屋敷跡を示す碑が立っています。一橋門そのものは残っていませんが、日本橋川に架かる一ツ橋のたもとでは、江戸城の堀の名残をとどめる石垣を川沿いに眺められます。竹橋や平川門と合わせて歩けば、屋敷が江戸城の門のすぐ内側にあったことを実感できます。

【トリビア】

一橋という名は、江戸のはじめに日本橋川へ丸木橋が一本だけ架けられていたことに由来すると伝えられ、この地で学校が始まった一橋大学の名にも受け継がれました。一橋家に伝わった文書や調度品は、慶喜が少年期を過ごした水戸の地にある茨城県立歴史館に寄贈され、館内の一橋徳川家記念室で、その一部がテーマを変えながら公開されています。

📅 最終更新: 2026/10/25
一橋徳川家
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です