【概要】
伊達宗城は、旗本の家に生まれて宇和島藩主伊達宗紀の養子となり、1844年に8代藩主を継いだ大名です。蘭学者の高野長英や村田蔵六(のちの大村益次郎)を招いて砲台や蒸気船づくりに取り組み、十万石の藩に西洋の技術を取り入れました。一橋派として隠居したのちも国政に関わり、明治政府では1871年に全権として日清修好条規に調印しています。
【歴史】
伊達宗城は1818年(文政元年)に旗本の家に生まれ、宇和島藩7代藩主伊達宗紀の養子となって、1844年(弘化元年)に8代藩主を継ぎました。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推す一橋派に加わり、1858年(安政5年)に隠居を余儀なくされます。それでも藩政への影響力は保ち続け、参預会議や1867年(慶応3年)の四侯会議に加わって、朝廷と幕府の協調をめざす公武合体の立場から国の行方を論じました。
【特徴】
宗城は西洋の軍事技術を取り入れることに力を注ぎました。幕府に追われていた蘭学者の高野長英をひそかに宇和島へ迎えて兵書の翻訳や砲台の設計にあたらせ、長州出身の医師だった村田蔵六、のちの大村益次郎も招いています。蔵六は城下で提灯張りを営んでいた嘉蔵とともに蒸気船の建造に挑みました。身分や出自を問わず腕のある者に仕事を任せた点が、宗城の名君ぶりを物語っています。
【見どころ】
愛媛県宇和島市にある宇和島城は、宗城が藩主を務めた宇和島伊達家の居城です。築城の名手藤堂高虎が手がけた城で、2代藩主伊達宗利が建て替えた三重三階の天守が現存し、現存十二天守の一つに数えられます。麓の上り立ち門から苔むした石垣と石段をたどり、標高約80メートルの山上に出ると、城下の町並みと宇和海の眺めが大きく開けます。木々に覆われた登城道の静けさも魅力です。
【トリビア】
明治政府で宗城は外交の要職を担い、1871年(明治4年)には全権として清に渡って、李鴻章とのあいだで日清修好条規に調印しました。これは日本が近代に入って初めて外国と対等な立場で結んだ条約とされます。宇和島市内の伊達博物館には、宇和島伊達家に伝わる甲冑や刀剣、書画などの大名道具が収められ、宗城の時代の宇和島藩の歩みをたどることができます。展示は時期によって入れ替わります。
