島津四兄弟は、戦国時代に薩摩の島津貴久の子として生まれた義久・義弘・歳久・家久の四人を指す呼び名です。長兄の義久が当主として家をまとめ、弟たちが各地の戦場で兵を率いて、大友氏や龍造寺氏を破り九州の大半を勢力下に収めました。祖父の島津忠良が四人それぞれの才を評した言葉も伝わっています。豊臣秀吉の九州平定で降伏したのちも、関ヶ原の島津の退き口などで名を残し、ゆかりの城跡や神社は鹿児島県と宮崎県に点在しています。
A.長兄の島津義久が当主として家をまとめ、弟たちが各地の戦場で兵を率いました。祖父の島津忠良は、義久を三州の総大将にふさわしい器量の持ち主と評し、三男の島津歳久の利害を見通す知略を評価したと伝わります。次男の島津義弘は前線に立った勇将で、末弟の島津家久は戦の駆け引きに最もすぐれたといわれます。
A.島津四兄弟は大友氏や龍造寺氏を破り、九州の大半を勢力下に収めました。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは大友宗麟の大軍を破り、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは島津家久らが龍造寺隆信を討ち取っています。島津義弘も元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで、伊東氏の大軍を少ない兵で破りました。
A.天正15年(1587年)、島津義久は薩摩川内の泰平寺で豊臣秀吉に降伏して剃髪し、薩摩と大隅の本領を安堵されました。島津家久は降伏した直後の同じ年に急死しています。島津歳久は天正20年(1592年)、梅北一揆に家臣が加わったことから秀吉に罪を問われ、義久が差し向けた追っ手に囲まれて鹿児島の竜ヶ水で自害しました。
A.慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した島津義弘が、敗色が決まったあと正面の敵中を突き抜けて退却した出来事です。義弘は伊勢方面へ逃れ、大坂から海路で薩摩へ戻りました。甥の島津豊久らが盾となって討ち死にし、帰り着いた兵は数十人ほどだったと伝わります。鹿児島では、これをしのぶ妙円寺詣りが毎年秋に続いています。
A.別の人物です。島津義弘の子の忠恒がのちに家久と名乗ったため、薩摩藩の初代藩主と四兄弟の末弟の島津家久が同じ名前になり、取り違えられやすい人物として知られます。忠恒は島津義久の三女の亀寿を妻に迎えて家督を継ぎました。末弟の島津家久は日向の佐土原城を本拠とし、天正15年(1587年)に亡くなっています。