【概要】
文屋康秀は、平安時代前期の歌人で、生没年は伝わっていません。縫殿助や三河掾などを務めた中下級の官人で、子の文屋朝康も歌人として知られます。三河掾として任国へ下る際に小野小町を誘い、小町が歌で答えたという話が『古今和歌集』の詞書に残ります。愛知県豊川市にある三河国府跡は、康秀が掾として赴いたとされる三河国の国府があった場所です。
【歴史】
文屋康秀の経歴は断片的にしか伝わっていませんが、三河掾や山城大掾、縫殿助を務めたとされます。三河掾は、三河国の国司の中で三番目の位にあたる役職です。二条の后と呼ばれた藤原高子が東宮の御息所だったころ、正月に御前へ召され、日が照っているのに髪へ雪が降りかかる様子を詠むよう命じられたことも『古今和歌集』に記されています。
【特徴】
紀貫之は康秀を「言葉はたくみにて、そのさま身に負はず」と評し、商人が身分に合わない立派な衣装を着ているようだとたとえました。言葉の技巧に優れる一方、内容が伴わないという厳しい見立てです。百人一首の「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ」は、山と風の二字を合わせると嵐になるという文字の遊びを生かした一首です。
【見どころ】
愛知県豊川市にある三河国府跡は、9世紀初頭から10世紀中葉まで機能した三河国の国庁の跡とされ、国の史跡に指定されています。発掘調査では、国の台所を意味する国厨と書かれた墨書土器が見つかりました。白鳥台地と呼ばれる高台の先端近くにあり、近くには三河国分寺跡や国分尼寺跡も残るため、古代の三河の中心地をまとめて歩くことができます。
【トリビア】
康秀が三河へ下る際に「一緒に田舎を見に行きませんか」と誘うと、小野小町は「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」と返しました。浮き草のような身なので誘う水があれば行こうと思う、という歌で、二人の親しさがうかがえます。百人一首の「吹くからに」は子の朝康の作とする説もあり、歌舞伎舞踊の「文屋」は康秀を主役にした一幕です。
