【概要】
鷹司家は、近衛家実の子である鷹司兼平を祖とする五摂家のひとつで、近衛家から分かれた家です。室町時代の末に跡継ぎが絶えましたが、織田信長のとりなしで二条晴良の子の信房が継いで再興されました。幕末には鷹司政通がおよそ三十年にわたって関白を務めています。京都市上京区の京都御苑の堺町御門の東に屋敷跡があり、禁門の変の激戦地として知られます。
【歴史】
鷹司家は、鎌倉時代の中ごろに近衛家実の四男である鷹司兼平が興した家です。兼平は1252年に摂政となり、ここに近衛・九条・二条・一条と並ぶ五摂家の顔ぶれがそろったとする見方があります。室町時代の末には当主の忠冬が跡継ぎのないまま亡くなり、家は一時途絶えましたが、およそ三十年後に織田信長の斡旋で二条晴良の三男の信房が家督を継ぎ、再興を果たしました。
【特徴】
鷹司家は、江戸時代後期から幕末にかけて朝廷政治の中心にいた家です。鷹司政通は1823年から1856年まで三十年以上も関白の座にあり、孝明天皇の信任が厚く、退いたあとも重要な政務の相談に応じました。その子の輔煕も関白に就いています。また江戸時代には鷹司家から徳川将軍家に嫁いだ女性もあり、京の朝廷と江戸の幕府を結ぶ役割も担いました。
【見どころ】
京都市上京区の京都御苑の南、堺町御門をはさんで東側に鷹司邸跡、西側に九条邸跡が並んでいました。いまの鷹司邸跡は屋敷の建物こそありませんが、広い芝生と松の木立が続く開けた場所で、環境省の案内板が五摂家の屋敷であったことと、禁門の変の激戦地であったことを伝えています。丸太町通に面した堺町御門から入ると、すぐ右手に広がります。
【トリビア】
1864年の禁門の変では、長州藩の久坂玄瑞らが朝廷への嘆願を求めて鷹司邸に入り込み、立てこもって戦いました。屋敷は火に包まれ、久坂玄瑞や寺島忠三郎らはその中で自ら命を絶ったと伝えられます。この火は周りへ燃え広がり、京都の町の広い範囲を焼くどんどん焼けにつながりました。静かな芝生の広がる鷹司邸跡は、幕末の動乱の舞台でもあったのです。
