【概要】
鈴鹿関は、三重県亀山市にある関町新所の台地で跡が確認された古代の関で、東海道を押さえて畿内の東を守りました。長く所在がわからないままでしたが、平成十七年に奈良時代の瓦が見つかったことをきっかけに調査が進み、関の西端を限る瓦葺きの築地塀が姿を現しました。令和三年には一部が国の史跡に指定されています。ふもとには江戸時代の宿場町の町並みが残り、関という地名そのものがこの関に由来します。
【歴史】
鈴鹿関は伊勢国鈴鹿郡に置かれた関で、壬申の乱の後に天武天皇のもとで整えられた三関のひとつとされます。美濃の不破関、越前の愛発関とともに畿内の東を固め、天皇の崩御や反乱といった国家の大事には固関使が遣わされて関が閉ざされました。延暦八年、西暦七八九年に三関は停廃されますが、儀式としての固関はその後も長く続けられ、関の名は後世まで語り継がれました。
【特徴】
大きな特徴は、所在が長く不明だったことです。平成十七年に三重県亀山市にある観音山のふもとで奈良時代の瓦が見つかり、翌年から関町新所で発掘調査が始まりました。重圏文軒丸瓦とともに瓦葺きの築地塀の一部が検出され、基底部の幅は一・八メートルほど、高さは三・九メートルほどと推定されています。これが鈴鹿関の西端を限る塀と考えられています。
【見どころ】
築地塀の跡が見つかった一帯は台地の縁にあたり、鈴鹿山脈の山並みと伊勢へ開けていく平野を同時に見渡すことができます。ここを押さえる意味が地形から素直に伝わる場所です。ふもとには東海道五十三次の四十七番目の宿場である関宿の町並みが続き、伝統的な建物が並ぶ通りを歩けます。西の追分では大和へ向かう道が分かれ、街道の交わる土地柄を今も感じ取れます。
【トリビア】
亀山市関町という地名も、宿場の名である関宿も、この鈴鹿関から生まれたものです。三関より東を指す言葉として関東が使われ始めたのも、これらの関が基準になっていました。なお現在の東海道が越える鈴鹿峠の道は仁和二年に開かれた新しい道で、古代の鈴鹿関が見張っていたのは、その北側を抜ける加太越の古い道筋だったと考えられています。




