古代三関は、律令国家が畿内の東の護りとして置いた三つの関、伊勢国の鈴鹿関・美濃国の不破関・越前国の愛発関をまとめた呼び名です。三関はさんげん、さんかんと読み、天皇の崩御や反乱といった国家の大事には固関使が遣わされて関が閉ざされました。延暦八年に停廃された後、九世紀の初めには愛発関に代わって近江国の逢坂関が数えられるようになります。陸奥の白河関などを指す奥州三関とは別のものです。
A.鈴鹿関は東海道、不破関は東山道、愛発関は北陸道を押さえていました。三つの関はともに畿内の東の護りとして置かれ、天皇の崩御や反乱といった国家の大事には固関使が遣わされて関が閉ざされました。
A.愛発関です。福井県敦賀市の疋田から追分にかけての一帯が有力とされますが、平成八年から五年にわたる発掘調査でも道路や施設の遺構は確認されていません。鈴鹿関は平成十七年の瓦の発見をきっかけに跡が確認され、不破関は関ケ原町の松尾の台地に跡が整備されています。
A.三関は延暦八年に停廃されました。ただし儀式としての固関はその後も長く続けられ、愛発関では大同元年の桓武天皇の崩御に際して固関が行われたのが記録に残る最後の姿です。九世紀の初めには愛発関に代わって近江国の逢坂関が三関に数えられるようになります。
A.別のものです。古代三関は伊勢国の鈴鹿関・美濃国の不破関・越前国の愛発関をまとめた呼び名で、陸奥の白河関などを指す奥州三関とは区別されます。なお三関より東を指す言葉として関東が使われ始めたのも、これらの関が基準になっていました。
A.三関の跡は三重県・岐阜県・福井県の三県に分かれています。直線距離では不破関と愛発関が約40km、鈴鹿関と不破関が約60km、鈴鹿関と愛発関が約90km離れています。愛発関は所在が特定されていないため、有力な推定地の一帯を訪ねることになります。