【概要】
坂出塩田は、高松藩の測量家久米通賢が瀬戸内の干満を生かして築いた入浜式塩田で、1832年に完成し、讃岐三白の塩を支えました。昭和30年代には枝条架を組む流下式へ姿を変え、1971年に全廃されて塩田そのものは消えましたが、坂出の海辺では今もイオン交換膜法による製塩が続き、塩の町の歴史は塩業資料館が伝えています。
【歴史】
1824年、久米通賢は困窮の続く藩財政の立て直し策として、高松藩9代藩主の松平頼恕に阿野郡坂出での塩田開発を進言しました。反対論を押し切って1826年に工事の実施が決まり、通賢は私財まで投じて開発に尽力し、1829年に開墾へこぎつけ、1832年に坂出塩田が完成します。その出来は当時の入浜式塩田の模範と呼ばれました。
【特徴】
入浜式は潮の干満を利用して海水を塩浜に導き、砂の上で日光と風にさらして塩分を濃くしてから、釜で煮詰めて塩を取る方法です。昭和30年代には竹の枝を組んだ枝条架にかん水を滴らせる流下式へ切り替わり、労力は十分の一、生産量は二倍から三倍に伸びました。それでも画期的だった流下式塩田の時代は十五年ほどで幕を閉じ、製塩は工場での作業へ移っていきました。
【見どころ】
坂出市塩業資料館には、古代の藻塩づくりから入浜式、流下式、イオン交換膜法へと移り変わった製塩の道具と工程が並び、久米通賢の測量器具や絵図も展示されています。広大だった塩田の跡地は市街地と番の州の工業地帯に変わりましたが、隣の宇多津の臨海公園には復元された塩田が残り、瀬戸大橋を望む海辺で往時の景色をしのぶことができます。
【トリビア】
1971年の塩業近代化臨時措置法により、日本の塩づくりは塩田からイオン交換膜法へ一斉に切り替わり、日本一の規模とも称された坂出塩田も姿を消しました。それでも製塩の火は絶えず、坂出市では日本海水の讃岐工場や讃岐塩業が操業を続けています。久米通賢は測量術のほか時計や銃も手がけた発明家として知られ、坂出では塩田の父と呼ばれています。




