讃岐三白

讃岐三白

讃岐三白は、江戸時代以降の讃岐国で盛んに作られた白い特産品、砂糖・塩・綿の三つをまとめた呼び名です。雨が少なく大きな川もない土地で米に頼れなかった高松藩や丸亀藩が、商品作物と塩田に活路を求めた結果でした。ただし三白の語が広まるのは明治以降で、幕末には小豆、明治前期には米を数える説もあり、藩の保護を失って傾きかけた産業をまとめて売り出すための言葉だったとも指摘されています。

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讃岐和三盆糖
🥢 名産🏯 歴史
📍 香川県 東かがわ市

讃岐和三盆糖

(さぬきわさんぼんとう)

讃岐和三盆糖は、竹糖と呼ばれる細いサトウキビを原料に、押し舟で蜜を搾り、手で研いで仕上げる淡い黄色の砂糖です。江戸時代に高松藩が財政再建の切り札として育てた産業で、明治以降は安価な輸入糖に押されながらも、東かがわ市の数軒が二百年前と変わらない手作業の製法を守り、和菓子に欠かせない砂糖として今も作られ続けています。

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坂出塩田
🥢 名産🏯 歴史
📍 香川県 坂出市

坂出塩田

(さかいでえんでん)

坂出塩田は、高松藩の測量家久米通賢が瀬戸内の干満を生かして築いた入浜式塩田で、1832年に完成し、讃岐三白の塩を支えました。昭和30年代には枝条架を組む流下式へ姿を変え、1971年に全廃されて塩田そのものは消えましたが、坂出の海辺では今もイオン交換膜法による製塩が続き、塩の町の歴史は塩業資料館が伝えています。

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讃岐の綿
🥢 名産🏯 歴史
📍 香川県 観音寺市

讃岐の綿

(さぬきのわた)

讃岐の綿は、三白のうち唯一営利栽培が途絶えた産品です。1532年ごろに関谷兵衛国貞が今の観音寺市豊浜町の関谷へ伝えたとされ、幕末以降は西讃の村々で栽培が広がりました。明治の安価な輸入綿に押されて畑からは姿を消しましたが、綿を祀るわた神社や木綿糸を使う讃岐かがり手まりの手仕事が、その記憶を今に伝えています。

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❓ 讃岐三白のよくある質問

Q.讃岐三白が讃岐で盛んになったのはなぜですか?

A.雨が少なく大きな川もない土地で、米に頼れなかったためです。高松藩や丸亀藩が、商品作物と塩田に活路を求めた結果でした。綿も雨の少ない気候が綿花に向いたため、両藩が年貢を補う商品作物として栽培を奨励しています。

Q.讃岐三白という呼び名はいつ頃から使われるようになったのですか?

A.三白の語が広まるのは明治以降とされます。幕末には小豆、明治前期には米を数える説もあり、藩の保護を失って傾きかけた産業をまとめて売り出すための言葉だったとも指摘されています。

Q.讃岐三白の三つはそれぞれいつ始まったのですか?

A.讃岐の綿は、1532年ごろに関谷兵衛国貞が今の観音寺市豊浜町の関谷へ伝えたとされます。讃岐和三盆糖は、向山周慶が1790年に白砂糖の生産に成功したのが始まりです。坂出塩田は久米通賢が開発に尽力し、1832年に完成しました。

Q.讃岐三白の砂糖・塩・綿は今も作られていますか?

A.砂糖と塩は今も作られていますが、綿は営利目的の栽培が途絶えています。讃岐和三盆糖は東かがわ市の数軒が手作業の製法を守り、坂出市ではイオン交換膜法による製塩が続いています。讃岐の綿は明治の安価な輸入綿に押されて畑から姿を消し、わた神社や讃岐かがり手まりがその記憶を伝えています。

Q.讃岐三白ゆかりの地を一度に回れますか?

A.三つとも香川県内にあります。讃岐和三盆糖の東かがわ市と坂出塩田の坂出市は直線距離で約50km、坂出市と讃岐の綿の観音寺市は約40km、東かがわ市と観音寺市は約70km離れています。

📍 所在地マップ

愛媛県岡山県香川県高知県大阪府徳島県兵庫県和歌山県213讃岐和三盆糖坂出塩田讃岐の綿50 km地図データ: Natural Earth
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