長束正家

(なつかまさいえ)
📍 近畿滋賀県 甲賀市🏯 歴史⛰️ 名所

【概要】

長束正家は算術に長けた武将で、はじめ丹羽長秀に仕え、長秀の没後に秀吉の家臣となって豊臣政権の財政を担いました。太閤検地や直轄地の年貢の勘定、大軍の兵糧の手配を受け持ち、1595年に近江の水口岡山城主となります。関ヶ原では西軍として南宮山に布陣しましたが、吉川広家に阻まれて戦えないまま敗れ、水口へ退いたのちに自害したと伝わります。

【歴史】

長束正家は近江の出身とも尾張の出身ともいわれ、生まれ年ははっきりしません。はじめ丹羽長秀に仕え、1585年に長秀が没すると、算術の腕を買われて秀吉に仕えました。1587年の九州攻めや1590年の小田原攻めでは兵糧奉行として大軍の補給を支え、1595年には近江の水口岡山城主となって、知行はのちに十二万石まで増えたとされます。秀吉の晩年には五奉行の一人に数えられました。

【特徴】

長束正家は五奉行のなかで財政を主に受け持ち、豊臣家の直轄地から上がる年貢の勘定や、太閤検地の実務、兵糧米の調達を取り仕切りました。算術や会計の腕で秀吉に重く用いられ、朝鮮出兵でも前線へ物資を送る役目を負っています。1600年には前田玄以・増田長盛とともに石田三成らの挙兵に加わり、三奉行の名で家康を弾劾する書状を出したとされ、西軍の一翼を担いました。

【見どころ】

長束正家の居城だった水口岡山城の跡は、滋賀県甲賀市にある古城山の山上に広がります。水口平野の東の縁に立つ標高約283mの山の全体が城の範囲とされ、天守は東寄りの土壇にあったと推定されています。関ヶ原の後に壊されて建物は残りませんが、2017年に国の史跡となりました。江戸時代に将軍の宿所として平地に築かれた水口城とは別の城なので、取り違えないよう気を付けたいところです。

【トリビア】

関ヶ原で南宮山に陣取った西軍は、吉川広家がひそかに家康と通じて動かなかったため、輝元の名代の毛利秀元や長束正家らの軍勢も戦えないまま合戦が終わりました。水口へ退いた正家は、東軍の池田長吉らに城を攻められて明け渡し、その後に自害したと伝わります。水口岡山城は正家の前に増田長盛も城主を務めており、五奉行の二人が続けて治めた城でした。

📅 最終更新: 2026/10/8
長束正家
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です