【概要】
毛利輝元は毛利元就の孫として中国地方の広大な所領を受け継ぎ、1589年から広島城を築いて本拠を移しました。豊臣五大老の一人に数えられ、1595年には112万石を安堵されています。1600年に西軍の総大将として担がれたものの関ヶ原の戦場には出ず、敗戦後は周防・長門の二か国へ大きく減らされ、萩城へ移りました。
【歴史】
毛利輝元は幼くして家督を継ぎ、叔父の吉川元春と小早川隆景に支えられて中国地方を治めました。織田勢との長い攻防のあと豊臣秀吉と和睦し、1589年に太田川の三角州で広島城の普請を始め、1591年に山城だった吉田郡山城から本拠を移します。1595年の御掟に連署した有力大名の一人で、のちに五大老の一人に数えられました。
【特徴】
輝元の所領は五大老のなかで家康に次ぐ規模で、1595年には112万石を安堵されています。ただ、政権の中枢に深く関わるよりも領国の経営に重きを置き、大きな決断を吉川広家ら家臣に委ねる場面が多かったと評されます。1600年7月、石田三成らに請われて大坂城西の丸へ入り、諸将から西軍の総大将に推挙されました。
【見どころ】
広島城は、広島県広島市中区の内堀に囲まれた平城です。天守は原爆で倒壊したのち1958年に外観復元され、本丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓も木造で再建されました。被爆しながら生き延びたユーカリやマルバヤナギが石垣際に立ち、三の丸には広島護国神社が鎮座して、堀端をめぐる散策路が広い城域を静かに一周しています。
【トリビア】
総大将に担がれながら、輝元が関ヶ原の戦場に立つことはありませんでした。大坂城を守ったまま合戦は一日で決し、戦後は改易こそ免れたものの、祖父元就以来の領地の多くを削られて防長二か国の大名として萩へ移ります。輝元は出家して幻庵宗瑞と号し、隠居の身でありながら実質的な当主として長州藩の政治を長く動かしました。
