【概要】
槍の又左と呼ばれた織田家の武将から、加賀・能登・越中およそ83万石の大名となり、1583年に金沢城へ入って本拠としました。豊臣五大老の一人として秀頼の傅役を務め、大坂城で幼君を後見しながら家康を牽制します。しかし秀吉の死からわずか八か月後、1599年閏3月に病没し、重石を失った政権の均衡は一気に崩れました。
【歴史】
尾張荒子城主の四男に生まれた前田利家は、十四歳のころ小姓として織田信長に仕え、赤母衣衆として各地を転戦しました。槍の名手だったことから槍の又左と呼ばれ、柴田勝家の与力として北陸を攻めて能登一国を得て大名となります。本能寺の変ののちは羽柴秀吉に従い、1583年に金沢城へ入って加賀・越中へ所領を広げ、豊臣政権の宿老として五大老に列せられました。
【特徴】
利家は秀吉と若い頃からの友人で、五大老のなかでも別格の信頼を受けていました。秀吉の死に際しては遺児秀頼の傅役を任され、みずから大坂城に入って幼君を守ります。武断派と文治派の激しい対立を仲裁できたのは利家だけで、その存在が家康の動きを押しとどめていたと、のちの軍記でも近年の研究でもくり返し語られてきました。
【見どころ】
利家が入った金沢城は、石川県金沢市の小立野台地の先端に広がっています。重要文化財の石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫が往時のまま残り、菱櫓・五十間長屋・橋爪門や河北門、鼠多門が木造で丁寧に復元されました。白漆喰の壁と鉛瓦が生み出す白い外観が特徴で、堀と石垣坂を挟んで隣り合う名園の兼六園とあわせ、半日かけてゆっくり歩けます。
【トリビア】
利家の死の翌年、家康は前田家に謀反の疑いをかけて加賀征伐を計画しました。跡を継いだ利長は母の芳春院を人質として江戸へ送ることで戦を避け、そのまま五大老の座を引き継いだとされます。槍の名手として知られた利家は算盤を手放さない吝嗇家でもあったと伝わり、加賀百万石の土台はその几帳面な算用に支えられていました。
