【概要】
北条早雲は後北条氏の初代とされる戦国大名で、実名は伊勢盛時、出家してからは早雲庵宗瑞と号しました。室町幕府に仕えた伊勢氏の一族の出で、駿河の今川氏を助けたのち伊豆へ進み、さらに相模の小田原を手に入れて関東進出の足場を築きました。本人は生涯「北条」を名乗らず、晩年まで居城とした韮山城で永正16年(1519年)に没しています。
【歴史】
北条早雲は、姉妹の北川殿が駿河守護の今川義忠に嫁いでいた縁で駿河へ下り、義忠の死後に起きた家督争いで甥の竜王丸、のちの今川氏親を当主に据えて、興国寺城を与えられたと伝えられます。明応2年(1493年)ごろには堀越公方の足利茶々丸を攻めて伊豆に討ち入り、やがて小田原の大森氏を退け、永正13年(1516年)には三浦氏を滅ぼして相模をほぼ平定しました。
【特徴】
「北条早雲」という名は後世に広まった呼び方で、本人の名乗りは伊勢新九郎盛時、出家してからは早雲庵宗瑞でした。かつては素性の知れない浪人から成り上がった下剋上の代表とされましたが、近年の研究では幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族で、将軍に仕える申次衆だったことがわかっています。生年についても、通説より二十歳以上若いとする説が有力になっています。
【見どころ】
静岡県伊豆の国市にある韮山城跡は、早雲が伊豆を治める拠点とし、亡くなるまで暮らした城の跡です。龍城山と呼ばれる丘の上に本丸や二の丸の平らな曲輪が段々に残り、麓の城池と呼ばれるため池越しに眺める姿は穏やかです。近くには幕末に江川英龍が築造を始めた韮山反射炉もあり、戦国と幕末という二つの時代の史跡を一日で巡ることができます。
【トリビア】
韮山城は早雲の死後も北条氏が伊豆を押さえる要の城であり続け、天正18年(1590年)の小田原征伐では、城を守る北条氏規が大軍の豊臣勢を相手に3か月近く持ちこたえたことで知られます。また、早雲が家臣への心得を説いたと伝わる『早雲寺殿廿一箇条』は、早起きや身だしなみ、言葉づかいなど日々の戒めを並べた家訓として、今も読み継がれています。