【概要】
夷守神社は、霧島六社権現の一社として宮崎県小林市にあった社です。応和3年(963年)ごろに性空上人が霧島岑神社の神々を夷守岳に勧請したのが始まりと伝えられ、夷守六所権現とも称されました。明治6年(1873年)に霧島岑神社へ合祀され、単独の社としては現存せず、その跡地が霧島岑神社の鎮座地になっています。
【歴史】
夷守神社は、応和3年(963年)ごろに性空上人が霧島岑神社の神々を夷守岳に勧請したことに始まると伝えられます。別当寺の宝光院は夷守岳の八合目に置かれ、六社権現の一つとして夷守六所権現と称されました。中世には在地の領主である北原氏が篤く崇敬し、のちには島津義弘や島津光久からも保護を受けたと伝えられています。
【特徴】
享保元年(1716年)の新燃岳の噴火で被災したのち、夷守神社は夷守岳の麓にあたる、いまの霧島岑神社が建つ場所へ遷りました。祭神は霧島岑神社と同じく、瓊瓊杵命と木花咲耶姫命、彦火火出見命と豊玉姫命、鸕鷀草葺不合命と玉依姫命という日向三代とその后神で、同じ神々を祀る二つの社が近くに並ぶかたちが続きました。
【見どころ】
夷守神社は明治6年(1873年)に霧島岑神社へ合祀されたため、社として独立してはいません。そのため参拝の場は霧島岑神社の境内で、参道の入口に立つ石造の仁王像がかつての姿を伝えます。像の背には享保6年(1721年)の年紀と雛守大権現の銘が刻まれ、ここに夷守神社があったことを示す手がかりになっています。
【トリビア】
夷守という地名は、古代に南の境を守る兵の役所が置かれたことに由来するとされます。日本書紀には景行天皇が夷守に至った話が見え、延喜式には西海道の夷守駅の名も記されています。合祀のため、霧島六社権現をめぐっても参拝できる社は五つしか残っていません。六社めぐりと呼びながら五社を訪ね、霧島岑神社で夷守神社にも手を合わせるのが今日の形になっています。




