【概要】
愛発関は、福井県敦賀市にあったとされる古代の関で、北陸道を押さえて畿内の北東を守りました。ところが所在地は今も特定されておらず、疋田や追分、山中の峠道など複数の推定地が唱えられています。中でも疋田から追分にかけての一帯が有力とされますが、発掘調査でも関の遺構は確認されていません。延暦八年の停廃の後、九世紀の初めには近江の逢坂関が三関のひとつに数えられるようになりました。
【歴史】
愛発関は越前国敦賀郡に置かれ、北陸道を通る人と荷を見張った関とされます。天平宝字八年の恵美押勝の乱では、藤原仲麻呂が越前へ逃れようとして幾度も愛発関の突破を図り、そのたびに阻まれたと続日本紀に記されました。延暦八年に三関は停廃され、大同元年の桓武天皇の崩御に際して固関が行われたのが記録に残る最後の姿です。以後は近江の逢坂関がその位置を引き継ぎました。
【特徴】
この関の最も大きな特徴は、どこにあったのかがなお定まっていないことです。福井県敦賀市にある疋田や追分、その南の山中を越える峠道、さらに白谷を越える道筋や若狭へ抜ける道沿いなど、研究者によって説が分かれてきました。現在は疋田から追分にかけての一帯が有力と見られていますが、平成八年から五年にわたる発掘調査でも道路や施設の遺構は確認されていません。
【見どころ】
有力な推定地とされる疋田は、近江と越前を結ぶ道が集まる谷あいの集落で、近世には宿場としてにぎわいました。水路が家並みの間を流れ、両側から山が迫る地形は、ここを押さえれば北陸道を断てるという愛発関の理屈を素直に伝えてくれます。南へ進めば近江との国境を越える峠道が続き、愛発という名は今も敦賀市の地区の名として残されています。
【トリビア】
愛発の名は万葉集に有乳山として詠まれた歌枕でもあり、都の人にとっては北の境を思わせる言葉でした。鈴鹿関と不破関が跡地を絞り込まれて史跡になっているのに対し、愛発関だけが位置を確かめられないままです。九世紀の初めに逢坂関へ入れ替わったのも、都に近い逢坂の方が実際の往来を押さえやすかったためではないかと考えられています。




