長州五傑は、文久3年(1863年)に長州藩が国禁を犯して密航させ、ロンドンへ送り出した井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤博文・井上勝の五人を指します。ジャーディン・マセソン商会の助けで海を渡り、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで学びました。帰国後はそれぞれ外交・造幣・工学・内閣・鉄道の礎を築き、近年は「長州ファイブ」の呼び名でも親しまれています。
A.長州五傑は文久3年(1863年)に、長州藩が国禁を犯して密航させ、ロンドンへ送り出した五人です。ジャーディン・マセソン商会の助けで海を渡り、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで学びました。山尾庸三はのちにグラスゴーへ移り、造船所で働きながら夜学に通っています。
A.五人はそれぞれ外交・造幣・工学・内閣・鉄道の礎を築きました。井上馨は初代外務大臣、遠藤謹助は造幣局長、山尾庸三は工学寮と工部大学校を築いた人物、伊藤博文は初代内閣総理大臣、井上勝は鉄道頭です。遠藤謹助は「造幣の父」、山尾庸三は「工学の父」、井上勝は「鉄道の父」と呼ばれています。
A.井上馨と伊藤博文は、渡航の翌年に急ぎ帰国しました。故郷が外国艦隊と衝突しようとしていることを知り、藩の説得にあたるためでした。遠藤謹助は体を壊して慶応2年(1866年)に帰国し、最も遅かった山尾庸三と井上勝の帰国は明治元年(1868年)の暮れでした。
A.遠藤謹助ゆかりの造幣局は大阪府大阪市北区にあり、ほかの人物のゆかりの地は山口県にあります。山口市には井上馨の生家跡の井上公園と山尾庸三が生まれた秋穂二島、萩市には伊藤博文旧宅と萩駅前の井上勝の像があります。萩市の二か所は直線距離で約2km、山口県と大阪府のあいだは約380km離れています。
A.造幣局の「桜の通り抜け」は、遠藤謹助の発案で始まりました。造幣局長だった遠藤謹助が明治16年(1883年)に構内の桜を市民に開放したもので、局員だけで花見をするのはもったいないという言葉が伝わっています。いまも大阪の春の風物詩として続いています。