【概要】
山名氏は、新田氏の流れをくみ、上野国多胡郡の山名郷を名字の地とする武家です。南北朝時代に山名時氏が山陰で勢力を広げ、一族で十一か国の守護を兼ねて六分一殿と呼ばれました。明徳の乱でいったん大きく所領を減らしますが、嘉吉の乱で赤松氏を討って復活し、山名宗全は応仁の乱で西軍を率いました。兵庫県豊岡市にある此隅山城跡は、但馬における山名氏の本城の跡です。
【歴史】
山名氏は、新田義重の子の義範が上野国多胡郡の山名郷に住み、山名を名乗ったのが始まりとされます。南北朝時代の山名時氏は足利尊氏に従ったのち一時は南朝方に転じ、1363年に幕府へ戻る際に因幡や伯耆などの守護を認められました。時氏の子や孫が但馬や丹後、美作などを次々と治め、一族で日本の六分の一にあたる十一か国を持つ六分一殿と呼ばれるまでになりました。
【特徴】
大きくなりすぎた山名氏を警戒した三代将軍の足利義満は、一族の内紛につけこみ、1391年に山名氏清と満幸を挙兵へと追い込みました。明徳の乱と呼ばれるこの戦いで氏清は京都の内野で討たれ、山名氏の領国は但馬・因幡・伯耆の三か国ほどに減ります。しかし1441年の嘉吉の乱で山名持豊、のちの宗全が赤松満祐を攻め滅ぼし、播磨などを得て再び幕府の有力者に返り咲きました。
【見どころ】
兵庫県豊岡市にある此隅山城跡は、出石の城下町の北およそ2キロメートル、標高約140メートルの此隅山に築かれた山城の跡です。南北朝時代の文中年間に山名師義が築いたとされ、山頂から四方へ延びる尾根に多くの曲輪が削り出されています。南の有子山城跡とともに山名氏城跡として国の史跡に指定されており、出石の町歩きとあわせて山名氏の足跡をたどれます。
【トリビア】
応仁の乱で西軍を率いた山名宗全は、赤ら顔から赤入道とも呼ばれ、京都の屋敷を西軍の本陣としました。西軍の陣が置かれたことから、その一帯はいまも西陣と呼ばれています。此隅山城は1569年に織田方の但馬攻めで落ちたとされ、山名祐豊はのちに南の有子山へ城を移しました。此隅が子盗みに通じるのを嫌い、子が有るという意味を込めて有子山と名づけたと伝えられます。
