【概要】
一色氏は、足利氏の一門で、三河国吉良荘の一色を名字の地とする武家です。南北朝時代に九州探題や若狭の守護を務め、明徳の乱の功で丹後の守護も得て、侍所の所司を出す四職の家に数えられました。六代将軍の足利義教に当主を討たれてからは丹後を拠りどころとし、戦国時代には京都府舞鶴市の建部山城を本拠としましたが、織田方の細川氏に攻められて滅びました。
【歴史】
一色氏は、足利泰氏の子の公深が三河国吉良荘の一色に住み、その地名を名乗ったことに始まります。南北朝時代には一色範氏が九州探題として南朝方と戦い、その子の範光は若狭の守護となりました。1391年の明徳の乱では一色詮範と満範の父子が幕府方として働き、丹後の守護職を加えられます。若狭と丹後の二か国を持つ一色氏は、侍所の所司を務める家として京都でも重きをなしました。
【特徴】
一色氏の勢いを断ち切ったのは、強い権力をふるった六代将軍の足利義教でした。1440年、大和の戦いに出陣していた当主の一色義貫は、義教の命を受けた若狭の武田信栄らに陣中で討たれ、若狭は武田氏のものとなります。一族は丹後の守護を保ち、応仁の乱では一色義直が西軍につきました。戦国時代には丹後の加佐郡に守護所を置き、背後の建部山に城を構えて国を守りました。
【見どころ】
京都府舞鶴市にある建部山は、舞鶴湾の西岸にそびえる標高およそ316メートルの山で、整った円錐形の姿から丹後富士とも呼ばれます。戦国時代には一色氏の居城の建部山城が山上に築かれ、尾根に沿って曲輪の跡が残ります。明治時代には舞鶴の軍港を守る砲台も山頂に設けられました。麓からは舞鶴湾の入り江を背にした山の姿を眺めることができ、湾越しに見る形がとくに美しい山です。
【トリビア】
一色氏の最後は、織田信長の命で丹後に攻め入った細川藤孝と明智光秀との戦いでした。1579年ごろ当主の一色義道が敗れて命を落とし、子の義定は細川忠興の妹を妻に迎えていったん和睦しますが、1582年に宮津の城で討たれて一色氏は滅びたと伝えられます。細川藤孝はその後、建部山を望む舞鶴の平地に田辺城を築き、丹後の新たな拠点としました。
