島津義久

(しまづよしひさ)
📍 九州鹿児島県 霧島市🏯 歴史

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【概要】

島津義久は、天文2年(1533年)に生まれた島津家の第16代当主で、四兄弟の長兄です。弟たちと力を合わせて薩摩・大隅・日向の三州を固め、大友氏や龍造寺氏を破って九州の大半を勢力下に収めました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定軍に降伏して剃髪し、龍伯と号しました。晩年は大隅の国分に舞鶴城を築いて移り、慶長16年(1611年)にこの地で亡くなりました。

【歴史】

永禄9年(1566年)に家督を継いだ島津義久は、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友宗麟の大軍を破り、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは弟の家久らが龍造寺隆信を討ち取りました。九州統一まであと一歩に迫りましたが、天正15年(1587年)、大軍を率いて南下した豊臣秀吉に薩摩川内の泰平寺で降伏し、薩摩と大隅の本領を安堵されています。

【特徴】

義久は前線で槍を振るうよりも、本拠に構えて弟や家臣に兵を任せる総大将型の当主でした。祖父の島津忠良は、義久を三州の総大将にふさわしい器量の持ち主と評したと伝わります。降伏後も豊臣政権や徳川家康との交渉では表に立ち続け、関ヶ原の戦いのあとも家の存続に力を尽くしました。和歌や連歌、茶の湯にも通じた教養人としても知られています。

【見どころ】

鹿児島県霧島市にある舞鶴城跡は、国分の市街地に位置し、背後には中世の山城が置かれた城山がそびえます。城跡の敷地はいま国分小学校となっていますが、石垣や堀の一部が残り、近くには朱塗りの門が移されて復元されています。周辺には義久の墓所や、ゆかりの寺社の跡も点在しており、晩年の義久が整えた城下の面影をたどりながら歩くことができます。

【トリビア】

義久は慶長9年(1604年)に富隈城から国分の舞鶴城へ移り、ここで晩年を過ごしました。義久には跡を継ぐ男子がなく、三女の亀寿が弟の義弘の子である忠恒に嫁ぎ、忠恒が家督を継いで薩摩藩の初代藩主となりました。国分は江戸時代から葉たばこの産地として知られ、義久がたばこの栽培を奨励したという言い伝えも地元に残っています。

📅 最終更新: 2026/11/8
島津義久
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です