島津歳久

(しまづとしひさ)
📍 九州鹿児島県 鹿児島市🏯 歴史

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【概要】

豊臣秀吉への服従に最後まで反対したとされる島津歳久は、四兄弟の三男で、祖父の島津忠良から利害を見通す知略を評価されたと伝わる武将です。兄たちとともに九州各地を転戦しましたが、天正20年(1592年)の梅北一揆に家臣が加わったことから秀吉に罪を問われました。兄の義久が差し向けた追っ手に囲まれ、鹿児島の竜ヶ水で自害しています。その最期の地には、いま平松神社が建っています。

【歴史】

島津歳久は薩摩の吉田や祁答院の虎居城などを治め、兄たちの合戦にたびたび加わりました。天正15年(1587年)に義久が降伏したあと、秀吉が薩摩から引き揚げる道中では、歳久の家臣が秀吉の駕籠に矢を射かけたという話が伝わります。天正20年(1592年)、肥後で起きた梅北一揆に歳久の家臣が加わっていたことから、秀吉は義久に歳久の首を差し出すよう求めました。

【特徴】

歳久は病のため手足が不自由で、晩年は馬に乗ることも難しかったと伝わります。最期は自ら刀を振るうこともかなわなかったといわれ、付き従った家臣たちの多くが主君に殉じました。その無念の死を悼んで、義久は慶長4年(1599年)に最期の地へ菩提寺の心岳寺を建てています。命日の旧暦7月18日には、多くの人々が参詣する心岳寺詣りが行われてきました。

【見どころ】

鹿児島県鹿児島市にある平松神社は、歳久を祀る神社で、錦江湾に面した吉野町の海沿いに建っています。もとは心岳寺という寺でしたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地が神社になりました。社殿の裏手には歳久と殉死した家臣たちの石塔や、歴代住職の墓が並び、湾の向こうには桜島が間近に望めます。

【トリビア】

歳久は晴蓑という号を持ち、最期に「晴蓑めが玉のありかを人問はばいざ白雲の末も知られず」という辞世を詠んだと伝わります。官職の左衛門督の唐名にちなんで金吾とも呼ばれ、鹿児島では親しみを込めて金吾さあと呼ばれてきました。平松神社の一帯は、江戸時代から歳久の霊を慰める参詣の地として、城下の人々に大切にされてきました。

📅 最終更新: 2026/11/8
島津歳久
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です