【概要】
関ヶ原の戦いで敵中を正面から突破した「島津の退き口」で名高い島津義弘は、四兄弟の次男です。元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで伊東氏の大軍を少ない兵で破り、朝鮮出兵では泗川の戦いで明・朝鮮の大軍を退けました。慶長5年(1600年)の関ヶ原では西軍に属し、敗色が決まったあと敵の陣を突き抜けて薩摩へ帰り着きました。晩年は大隅の加治木で過ごしています。
【歴史】
島津義弘は兄の義久を支え、日向や肥後の攻略で前線に立ちました。豊臣秀吉の九州平定ののちは豊臣政権との窓口役を担い、朝鮮出兵にも渡海しています。関ヶ原の戦いでは千数百の兵で西軍に加わり、退却の際は正面の敵中を突き抜けて伊勢方面へ逃れ、大坂から海路で薩摩へ戻りました。甥の島津豊久らが盾となって討ち死にし、帰り着いた兵は数十人ほどだったと伝わります。
【特徴】
慶長3年(1598年)の泗川の戦いで、義弘は少数の兵で明・朝鮮の大軍を退け、敵から鬼石曼子(グイシーマンズ)と恐れられたといわれます。勇将として知られる一方で、家臣や兵をいたわる人柄だったという逸話も多く残ります。関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は島津家の本領を安堵し、家督は義弘の子の忠恒が継いで、江戸時代の薩摩藩の基礎が築かれました。
【見どころ】
鹿児島県姶良市にある精矛神社は、義弘を祭神とする神社です。明治2年(1869年)に義弘が晩年を過ごした加治木館の跡に創建され、没後300年にあたる大正7年(1918年)に日木山の現在地へ移されました。木立に囲まれた石段を上った先に社殿が建ち、例祭は義弘の命日にちなむ7月21日に行われます。加治木の町なかには館の跡も残っています。
【トリビア】
関ヶ原の退き口をしのび、鹿児島の人々は毎年秋に、鹿児島市から義弘の菩提寺だった妙円寺の跡に建つ伊集院の徳重神社まで歩く妙円寺詣りを続けています。加治木に伝わるくも合戦は、朝鮮出兵の陣中で義弘が将兵の士気を高めるためにクモを戦わせたのが始まりとされます。義弘は元和5年(1619年)、数え85歳で加治木で亡くなりました。
