【概要】
天保の飢饉は、1833年ごろから1839年ごろにかけて全国に広がった飢饉で、とくに1836年の凶作が深刻でした。冷害や洪水が重なって東北や北関東を中心に多くの餓死者が出たとされ、米価の高騰は大坂や江戸などの都市の暮らしも直撃しました。1837年に大坂で起きた大塩平八郎の乱は、この飢饉のさなかに困窮する人々の救済を掲げたもので、大阪市北区の造幣局のあたりが乱の始まった場所です。
【歴史】
天保の飢饉は、1833年の冷害による凶作から始まり、その後も低温や長雨、洪水が繰り返されて、1836年には全国的な大凶作となりました。東北地方や北関東の農村では多くの人が飢えや疫病で亡くなったとされ、甲斐の郡内騒動や三河の加茂一揆など、各地で大規模な一揆や打ちこわしが起こりました。こうした社会の動揺は、のちに幕府が進める天保の改革へとつながっていきます。
【特徴】
天保の飢饉は、農村だけでなく都市にも深い傷を残しました。大坂では米価が高騰して町の人々の暮らしが行き詰まり、大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、奉行所に救済を訴えても聞き入れられなかったため、自らの蔵書を売って人々に施したとされます。そして天保八年の旧暦2月19日にあたる1837年の春、救民を掲げて門弟や近郊の農民とともに兵を挙げました。
【見どころ】
大塩平八郎が自宅で開いていた私塾の洗心洞は、いまの大阪市北区天満一丁目にあたり、その跡地は造幣局の敷地に含まれています。乱の当日、大塩はこの屋敷に火を放って出陣し、天満から船場へと進みました。造幣局のまわりは大川に沿って緑の多い一帯で、春の桜の通り抜けの時期には多くの人が訪れます。近くの国道1号沿いには、乱のゆかりを伝える槐の跡の碑も立っています。
【トリビア】
大塩平八郎の乱は、大砲まで持ち出した武力の蜂起でしたが、わずか半日ほどで鎮められました。しかし戦いの火は大坂の町に燃え広がり、大塩焼けと呼ばれる大火で市中の広い範囲が焼けたと伝えられます。幕府の元役人が直轄の町で兵を挙げたことは幕府に大きな衝撃を与え、同じ年には越後の柏崎で国学者の生田万が、これに呼応するように代官所の陣屋を襲う事件も起きました。